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1993年9月1日〜9月30日・日本経済新聞掲載
目次
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努力十倍、必勝の信念
兜町で「偏人」で勝負
創業記念日
九月一日は立花証券の創業記念日である。今年(平成五年)は創業四十周年、私の証券人生も四十五周年に当たる。
昭和二十八(一九五三)年九月一日、日本橋江戸橋の十六坪の社屋に社員総数十三人、資本金五百万円で江戸橋証券を設立した。私自身は会社設立の五年前の二十三年に、裸一貫で証券界に飛び込んだ。二十五歳だった。三十二年に立花証券を買収して江戸橋証券を清算したが、創業記念日は九月一日を残した。
創業記念日としてこの日を選んだのは私が生まれた年、大正十二年の九月一日の関東大震災の思い出と、知人が「クッピン(九一)は縁起がいい」と教えてくれたからである。
四十周年の記念行事は一切やらない。証券業界に異常なことが起き、昭和四十年の証券不況でも黒字決算を続けた立花証券も、前期決算で初の赤字(十八億円)に陥った。こうした状況を踏まえ、社員に迎合せず、お客様に恭順の意を表すために控えるべきだと思うからだ。
四十年前の二十八年は証券取引所で立会が再開されて四年目、三月のスターリンの死と二十五年に始まった朝鮮戦争の休戦協定調印の動きが重なった株式相場の大暴落(スターリン暴落)の真っただ中にあった。
会社は最後発。三十歳で業界最年少の経営者だった私は、日本経済が大発展期を迎えたことを確信して、だれよりも強気で相場に臨み、千載一遇のチャンスを投資家に訴えていった。
会社が成長してオーナーの私自身も潤ったが、社員総数十三人が最高時千二百十五人に、純財産額は当初の五百万円が六百七十二億円に、それぞれ九十倍、一万四千倍に成長したことは、金銭的にも出世のチャンスでも、社員にとって有利だったことは確かだ。お客様に対しても完全とはいえなかったが、最大限勉強の成果を訴えてきたと思っている。
立花証券の成長は九割が日本経済の大発展のたまものだが、幸いだったのは証券界が実力の世界で、他力を頼まず自力で押し通す私の生き方が受け入れられる業界だったことだ。
十四歳で実社会に飛び出し、軍需工場の徒弟を振り出しに、ドラ焼き屋、警視庁巡査、カツギ屋、「独眼流」のペンネームで書きまくった業界紙記者を経て、証券会社の経営にたどり着く――。私の前半生は、学歴ゼロの人間が「天下に大を成す」ことを胸に秘め、戦国時代の日本経済を相手に、目的の実現に向けてその時々に最も理にかなった選択をし、行動した軌跡である。
朝六時起床、六時半にニュースを五分聞いて約三十分新聞を読む。七時に便所に入り、朝ぶろにつかって十分で食事をとる。七時二十五分に家を出て八時には会社に着く。株の取引時間中、短波放送の実況を聞きながら仕事をする。夜の宴会は一次会で勘弁してもらい、どんなに遅くなっても十一時には床に就く。
四十五年間このような機械的な生活を続けてきたのは、他人の十倍の努力をすれば負けるはずがないと自分に言い聞かせるためである。
結婚して四十六年目。家内には新婚早々「全力を挙げて仕事に取り組むので家庭は頼む」と宣告して女房孝行をしたことがない。子供には、長男が四歳の時に後楽園遊園地に連れていったきりだ。「趣味を持て」と言って下さる方もいたが、書画骨董(こっとう)に凝ると勉強がおろそかになるから近づかなかった。株の世界で生き、自分の頭だけで勝負してきた私には、時間的な余裕はなかった。石井久を「変人」と言う人もいるが、偏っていることは確かだから「偏人」だと思っている。
今年で満七十歳となり、人生の終幕が近づいてきた。私が生きた時代を振り返り、日本経済の発展と証券市場の果たした役割をもう一度確認しておきたいと思う。
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昭和28年(1953年)3月、この建物で石井株式研究所を発足。同年9月、江戸橋証券を設立
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貧乏でも成績は一番
夏休みには土木工事で稼ぐ
十三人兄弟
私の生まれは、大正十二年(一九二三年)五月十三日、福岡県筑紫郡大野村(現在大野城市)牛頸という山間の農村である。
父藤井忠五郎、母トキは、八男五女計十三人の子供をもうけた。私は上から数えても下から数えても七番目の五男。子沢山が珍しくなかった当時でも、十三人兄弟というのは村一番の大家族だった。両親は働き者で通っていたが、小作(借地)を含めて一町五反(一・五ヘクタール)の小農だから貧乏でも村有数だった。
時代も悪かった。私が生まれた年の九月に関東大震災が起き、昭和金融恐慌、世界恐慌が続く。小学校に入った翌年には満州事変が勃発した。戦時体制の強化とともに、九州の片田舎の農村にも、日増しに疲弊する経済が影を落としていった。
記念写真を除けば、自分の最も古い写真は、十九歳の時のものだ。赤ん坊や子供のころの写真がないのは、生家に写真を撮るだけの余裕がなかったからである。
小学四年生の時、よその家では硬いご飯(麦と米の飯)を食べていると知って大変な衝撃を受けた。食事と言えば、おかゆのことだと思い込んでいたからだ。二歳ずつ年の離れた兄弟は年齢に応じて働かされた。子守や炊事の家の手伝いに農作業。時には九時、十時まで続く夜なべ。夏休みには土木工事や鉄道の保線工事をして家計を助けた。
貧しい食事や働くことに不満も引け目も感じなかったが、三円の旅費が納められなくて小学校の修学旅行に参加できなかった時は、貧乏を恨んだものだ。
そんな家庭の状態だったから、私が受けた正規の学校教育は義務教育だけ。従って、最終学歴は尋常高等小学校卒業である。井上準之助蔵相が「金解禁」を断行した年、昭和五年四月に大野村小学校牛頸分校(現在大野南小学校)に入学した。
学校では全神経を授業に集中して理解し、記憶した。記憶力には自信があったが、それも集中力あってのものだ。子供ながらに「自分が先生ならこの問題を出すはずだ」と、立場を代えて考えるクセが身についていた。出題予想はまず外れなかったので、試験勉強はしなくても成績は一番の優等を通した。
小学校の唱歌の成績に「乙」が付いて総「甲」にならなかったのは、机にしがみついて歌を歌わなかったためだ。音痴でも級長をやっていたから、歌えば「甲」をくれただろう。歌わない理由を先生に聞かれて、「歌は女子供の遊びだ。そんなことで天下に大を成せない」と答えるような子供だった。
まじめ一方の父は、「天気の日に野菜を売りに行くより、雨の日に蓑笠(みのかさ)つけて行けば二倍で売れる」などと言うませた五男坊の私をかわいげのない子供と敬遠した。私は自転車で筑紫郡中の農家に「何の種をまいているのか」聞いて回った。必ず去年当たった作物の種で、我が家も例外ではなかった。「逆をやれば高く売れる」と意見する私を、父や兄は嫌がったものだ。
愚直な父に比べて、母は従順で聡明だった。後に、敗戦を目前にして本土決戦で死ぬのはばからしいと思い、満州(現中国東北部)に逃げようとした私を思いとどまらせたのは母だった。逃亡が実現していれば、ソ連軍の参戦で悲惨な目にあっただろうから、母は命の恩人である。
父は三十四年に七十三歳で、母は五十三年に八十六歳で亡くなった。母が死ぬまで年に一度兄弟が集まり、私が皆のカネを預かって年一割の金利で回してやっていたが、母の死んだ日をもって親孝行の務めを果たし終えたと考え、カネも返した。
私は小学校卒業の十四歳で家を出ているから、下の兄弟とはそう長い間一緒に暮らしていない。長兄はインパール作戦に従軍してマンダレーで戦死、末弟は進駐軍の車に接触して事故死している。三番目の姉が三年前に七十四歳で亡くなったほかは健在である。
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小学校出て工場勤め
戦争始まり物不足を予想
反物貯金
小学校を卒業する時、村長や校長が上級学校への進学を勧めてくれた。しかし、経済的理由以外に「農業は立派な職業だから」と言う昔気質の父は学問に理解を示さなかったので、中学進学の希望はかなわなかった。
昭和十三年三月、私は大野村小学校高等科を卒業した。この時も、担任の先生は月謝がタダの師範学校への進学を勧めて父を説得しようとしたが、父は応じなかった。四つ年上の兄の勇は、軍隊仲間と一緒に勉強好きな弟を学校にやってやろうと運動してくれた。その恩義は今でも忘れていない。
進学の道を断たれた私は、満十四歳で実社会に飛び出した。今様に言えばサラリーマンだが、徒弟奉公である。就職先は働きながら勉強ができるという理由で、実家から八キロ離れた所にあった渡辺鉄工所(現在の渡辺自動車と渡辺鉄工所)を選んだ。競争率二十倍の難関だった。
徒弟生活は朝の六時に自転車で家を出て、四年間で工業学校卒業程度の資格が取れる夜学を終え、星を仰いで帰宅するのが日課だった。二度手間の食事の支度など母の負担が重いので、入社四カ月目に無断で家を出た。自分では「口減らし」の親孝行のつもりだったが、父は烈火のごとく怒って私は勘当同然の身となり、盆暮れに帰っても食事をさせてもらえなかった。
手先が器用な私は、飛行機の胴体と翼の付け根に当たるフィレットを、一枚のジュラルミンの板で流線型に仕上げる仕事の名人だったから、軍需工場で重宝がられた。
工場では約五十人が一つの班となる共同請負の歩合制賃金だった。仕事を沢山こなせばそれだけ班の分け前が増えるので、班長は名人の私を頼りにしたし、みんなからも大切にされた。班の歩合の五割方は私が稼いでいた。歩合給は本給に比例するので、大人は月に七―八円になったが、子供の私は一円か二円にしかならない。理屈に合わないが、人に認められればそれでいいというのが私の主義だった。
だれよりも早く出勤して、だれよりも遅く退社することを心掛けた。就業時間は朝七時から残業の終わる夜七時までだが、人が始業十五分前に出勤して終業十五分後に退社すれば、自分は十六分前にきて十六分後に帰る。当時もあったタイムカードを見れば、「感心なやつだ」となって買ってくれる。
私は今でも社員にその話をして「それだけのことで評価に大きな差ができて、大を成すかどうかが決まる」と言っている。
国家総動員法が公布された十三年にはすでに支那事変(日中戦争)が始まっていて、翌年には第二次世界大戦に突入した。新聞の論調は満州事変、上海事変と同様に支那事変も短期で終わるというものだったが、重慶に立てこもった蒋介石は「徹底抗戦」を主張していた。
この戦争は長期化すると直感した私は、大正三年から七年まで続いた第一次世界大戦中の物の値段を調べた。最も値上がりが激しかったのは砂糖、塩、それに衣類だったが、砂糖や塩は保存が厄介だ。それで始めたのが「反物貯金」である。
徒弟時代の収入は、夜学の合間の残業代を入れて月に十三―十四円。四畳半の部屋代三円と、会社の食堂の朝八銭、昼と夜が十銭の食費を引いて残った二―三円で、一反三円前後の反物を買っていった。
戦争が終わった時の「貯金」は三十反を超えていた。物不足で三―十倍に値上がりしていたので、みんなに分けてやると喜ばれた。当時十円で買った仙台平の袴(はかま)の生地は、今でも記念に持っている。
軍需生産の増加で民需生産が減れば、物不足でカネの値打ちがなくなることはだれにでも考えつきそうなことだ。戦争は負けると思ったので、負けたらどんなことが起きるか、二十年前のドイツで起きたことを調べた。結論はインフレである。
だが、「貯金はするな」と言っても、父には戦争に負けるという発想がなかった。「反物を買え」と勧めると、それで着物をつくると思ったのか、「久はぜいたくをする気か」と取り合わずに、せっせと郵便貯金をしていた。
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研究発表で「敗戦の夢」
本土決戦恐れ満州行き画策
技術幹部養成所
渡辺鉄工所は私が学問に接した最初で最後の機会を与えてくれた。
夜学で四年間の課程を終了すると、高等工業学校に匹敵する技術幹部養成所の受験資格ができた。昭和十六年の太平洋戦争の開戦で軍用機の増産に拍車がかかると、会社では技術者の不足が目立つようになり、技術幹部の養成に乗り出していた。技幹になると兵役の免除もあるというので希望者が殺到した。私は十七年、二十人に一人の競争を突破して技術幹部養成所に入所した。
映画や喫茶店は無論のこと、街の飲食店にも出入りしたことのない生活を四年間続けたので、勤務成績、学業成績とも抜群だった。模範工員として、上司の信頼を勝ち得ていたこともプラスになったと思う。
徒弟時代とは異なり、技幹になると丸二年、全寮制の下で朝昼晩勉強に専念できた。小学校の時から働いていた私にとって、初めて体験する勉強三昧(ざんまい)の生活だ。
講義の内容は高等数学と物理が中心で、私は初めて微積分や熱力学などの工学を学んだ。講師には、九州帝大や久留米高工の先生がアルバイトで教えにきていた。
余談だが、経済は力学の要素が大きい。経済現象を因数分解すると理解しやすいのだが、一般に経済学部出の人は数学が苦手のようだ。物の値段は需要と供給で決まることを子供のころから生活を通して学び、技幹時代の二年間に学問的な基礎を勉強した。力学的な経済理解の方法は、景気変動や株式相場の予測に欠かせない。証券界に入ってから、この時の勉強が大いに役立った。
技幹時代の思い出に、研究発表会のことがある。技幹一年生の発表会で私は「夢」をテーマに話をした。技術者の卵の研究発表だから、皆はきっと夢の科学的な話だろうと思ったようだが、内容は「戦争に負ける夢を見た」というものだった。
右翼的な人が多い軍需工場の社員が国策を否定するような発言をするのは勇気の要ることだったが、「夢で見た」ということだったので退校処分にならずに済んだ。
なぜそんな危険なまねをしたのかというと、軍需工場に物資がなく、戦況が好転する可能性もないのに、技術者の分際で神がかり的なことを言う人が多いことにあきれたからだ。
物資不足、部品不足はひどいもので、私は二十年に三菱重工業の名古屋地区の工場に部品の催促に行った。先にも後にもたった一回の出張だからと、記念に名古屋城を見学して金の鯱に感心した覚えがある。
会議を終えるとその足で帰路に着いたが、汽車で岐阜を通過した折、大空襲で私が泊まった大須観音の宿が焼失、名古屋城も焼け落ちたと聞いた。爆撃目標の三菱重工では多数の犠牲者を出したという。空襲がもう一日早ければ、私も犠牲者の一人になっていただろうから、間一髪の命拾いだったわけだ。
命拾いと言えば、母に感謝している。既に触れたことだが、敗戦は必至と見た私は、米軍が上陸して本土決戦で殺されるのはたまらないと思い、満州(現中国東北部)行きを画策した。移動の自由などない時代だが、満州国の官吏になれば合法的に日本を出られる。満州で警察官を募集していたのに目を付け、家族にも内証で応募すると採用通知がきた。
渡航手続きも済ませた私は、母にだけは別れを告げようと、十九年八月のある夜、実家に帰って計画を打ち明けると、母は「満州だってどうなるか分からない。同じことなら勝手知った内地で山に逃げた方がいい」とたしなめた。私はそれもそうだと思い直して、計画を断念した。
二十年に技術幹部養成所を卒業すると、九州飛行機となっていた会社の組み立て工場、香椎工場で生産計画を練る企画班の主任になった。十五―十六人の部下がいて、ここで八月十五日の終戦を迎えた。
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工場辞め駅前で商売
弁護士めざして学費作り
ドラ焼き屋
昭和二十年八月十五日の「玉音放送」を、私は九州飛行機の香椎工場で聞いた。
雑音でよく聞き取れなかったので、戦意発揚の放送と勘違いした者もいたが、私は六日の原爆投下以降、爆撃が途絶えた時から降伏の交渉をしているに違いないと考えていた。かすかに聞こえた「ポツダム」の言葉で敗戦を確信した。
男兄弟八人のうち五人が出征し、長兄はビルマで戦死。小学校の同級生五十七人のうち半数ぐらいが戦争で命を失ったが、その時は特別な感慨はわかなかった。
戦争に負けることは早くから予想できたし、戦争が終わったらどうするかを決めていたので、その日が来たか、という気持ちだった。私は敗戦と同時に間髪いれずに辞表を出し、十月には退社した。
軍需産業の飛行機会社は仕事がなくなるから生き残れない。会社にできることは自動車の修理ぐらいで、人員は十分の一で済むはずだ。そう考えて、早く他の分野に移った方が得策だと皆にも勧めたが、優秀な人ほど会社に残りたがった。
私が証券界に入ってからもしばらくは、昔の仲間が身の振り方の相談に来た。そのたびに、「九州には仕事がない。経験を生かすには自動車メーカーに行かねばだめだ。自分で商売をやろうとするな。早く宮仕えした方がいい」と忠告したが、余り聞き入れられたとは思わない。
技術幹部養成所の同期生は、年に一度、持ち回りで幹事をして同期会を開いている。今ではメンバーが半減して二十人足らずになった。会社(九州飛行機)はその後、オーナーの渡辺さんが売りに出し、西日本鉄道の自動車修理部門の筑紫工業となって現在に至っている。
さて、私は心に決めていたことを実行に移した。当面の目標は弁護士になることだった。弁護士の職業は、学歴のない自分が世に出るために残された数少ない道の一つと考えたからだ。
二、三年勉強すれば試験に合格する自信があったので、その間の学費と生活費は三万円もあれば十分と計算して、さっそく軍資金作りに取りかかった。にわか「ドラ焼き」屋の開業である。
福岡県糸島半島の突端にある糸島郡桜井村の姉の嫁ぎ先の親せきに転がり込んで、半年近く塩炊きをした。ドラ焼きと塩炊きがどう結び付くのか、そこが知恵の絞り所だ。
ドラム缶に半分、五斗の海水を一昼夜煮ると二升の塩が取れる。一週間から十日かけてつくった一斗の塩を持って農家に行くと、小麦一俵に換えてくれる。それを水車小屋で粉にひいてもらい七十五斤の小麦粉を受け取る。さつま芋をあんこにして、小麦粉一斤から百二十個のドラ焼きができる。一個一円で売れば約一万円の現金収入になる。見てくれはともかく食料不足の時代だから、博多駅近くまで自転車で運ぶと並べるそばから飛ぶように売れた。
この商売のカン所はあんこを別にして、原価ゼロにある。海水はもちろんタダだが、燃料は米軍の上陸に備えて切り倒された海岸の松の木などに目を付けていた。塩をつくるところからドラ焼きを売るところまで、物々交換と自分一人の力で完結する。だから売り上げのほとんどは懐に残り、半年足らずで目標の三万円を稼ぎ出した。
その後、私は警視庁の巡査になるが、その時の月給は五百円程度だったから、敗戦直後の三万円はかなりの価値があった。そうはいっても、軍需産業の工場主任と言えばそれなりの社会的地位があったので、福岡の町でドラ焼きを売っている姿を知人に見られたくないという思いは私にもあった。
準備万端整って、いよいよ勉強のために上京することになるが、私の人生は目算通りには展開しなかった。三年間は食えると踏んでいた蓄えが、猛烈なインフレであっと言う間に目減りしてしまったからだ。
インフレを予想しなかったわけではないのだが、日本を占領した米軍は、強権を発動して三年間はインフレを抑える政策を取るだろうと思ったのが間違いだった。
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交番勤務の傍ら勉強
結婚を機にカツギ屋に転向
警視庁巡査
ドラ焼き屋半年で目標の三万円をためた私は、弁護士の勉強をするため上京を決意する。だが、当時は食料不足が深刻な都会への人口流入を防ぐ転入制限があった。身元引受人もいない私は、警視庁の募集に応募するしか適当な方法がなかった。満州(現中国東北部)への渡航を企てた時も警察官に応募しているから、よくよくお巡りさんとは縁があったことになる。
昭和二十一年八月に上京して半年間、警察官練習所で訓練を受けた。はじめて見る東京は一面の焼け野原。練習所は今、武道館が建っているあたりの近衛師団の跡にあった。千鳥ケ淵の堀のがけは芋畑になっており、先輩が植えた芋で飢えをしのいだ。
訓練期間が終わると配属希望を聞かれたので、小岩署を希望した。小岩署管内の江戸川交番は、千葉から東京へのヤミ物資を取り締まる検問所になっていた。自分も食料には困らないだろうとの読みがあった。
空襲で焼け残った小岩地区は、狭い家に三世帯、四世帯が住む人口密集地で、物価が安く暮らしやすい町だった。駅前交番に勤務することになった私は、仕事以外のエネルギーを法律の勉強に傾注した。
社会は混乱していたが、食うや食わずの当時は殺人や強盗の凶悪犯罪はまずなかった。私が腰のピストルを抜いたのは一度だけ。「強盗が入っている」という緊急通報で現場に駆けつけたが、通報者の勘違いだったという一件だけだった。
警察の仕事はヤミ屋と泥棒を捕まえること。犯罪検挙数の八割方は食糧管理法違反、つまりヤミ行為の摘発で、ヤミ屋を狙えば成績は上がった。しかし、警察官を長くやるつもりがない私は、自分もヤミ米を食っている身だし、必要に迫られてやっていることなのだからと見逃した。
巡査をしばらくやると、ヤミ屋と泥棒の見分けがつくようになる。大きなリュックを重そうに背負っているのはヤミの買い出しで、軽そうなのが泥棒だ。重い荷物の中身は米や芋の食料、軽い方は衣類。衣類を食料と交換しに行く人は、ふろしきに一着か二着、大切そうに抱えて歩く。リュックに一杯詰めた衣類を持ち歩いているのは、人様の物を盗んだものと思って間違いなかった。
熱心な警察官ではなかったが、署長に意見を具申したことがある。管内を巡回する警邏(ら)は規則で夜やることになっていた。しかし、家人が買い出しに出掛けた留守を狙って泥棒が出没するのは昼間だから、「警邏は昼にやったらどうか」と提案したのだが、署長は「規則は規則」と言って進言は入れられなかった。
二十二年十月に月給五百円の巡査を辞めたきっかけは結婚である。世に出る野心を持っていた私は妻子は邪魔と考え、独身を貫くつもりだったが、ある事情でそうも行かなくなった。猛烈なインフレで蓄えが目減りしたことも私の計算を狂わせた。
結婚と前後して周囲の反対を押し切ってカツギ屋を始めた。ヤミを取り締まる側から取り締まられる側への転向である。ドラ焼きを売った時と同様に、目的を実現するための軍資金作りと割り切ればこそできた。
目を付けたのは、物価統制令によって生じた価格の地域間格差を利用した商売である。「反物貯金」の経験があったので、持ち運びの楽な銘仙に着目した。銘仙の価格差は、産地の佐野市(栃木県)と郷里の福岡で約二倍あった。
佐野へ行って一度に三疋(六反)の銘仙を買い、腰に巻いて福岡に運ぶ。東京駅の八重洲口に三日から一週間並んで切符を買い、買い出しの人で超満員の列車に三十時間立ち通しの難行苦行は、月に三往復がやっとだった。車中では何もやることがないので、東京から福岡までの駅名を全部そらんじるほどになった。
八カ月で目標の十万円がたまったのでカツギ屋を廃業した。
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計画狂い兜町入り
無給で証券会社経営学ぶ
結 婚
小岩署の巡査時代、下宿からふろ屋に行く途中の米屋のおかみさんが私を呼び止め、配給の干しぶどうや食事をよくごちそうしてくれた。東京に身寄りのない私はおかみさんと話し込むようになり、やがて娘をもらってくれと言う話になった。初めはえん曲に断っていたが、自分を気に入ってくれたその母親がガンで先が短いと分かり、あれよあれよという間に決まってしまった。昭和二十二年十一月、私は女学校卒業前の石井愛子と結婚した。
二十四歳と十九歳の若い夫婦の誕生にはとんだ後日談がある。二十四年の暮れに生まれた双子の娘の出生届を出しに行って指摘されるまで、結婚届を出すことを知らなかったのだ。理詰めで考え計画的に行動する私も、世事にはうとかった。私たちの戸籍上の結婚は二十五年一月。養子縁組というわけでもなかったが、藤井姓から石井姓に変わったのも、正式にはその時ということになる。
予定外の結婚とインフレで計画を狂わせられた私は、弁護士をあきらめ、カネをつかんで力を付けようと方針を切り替えた。カツギ屋に転じたのはその軍資金を稼ぐためだ。インフレ対策で株の売買に手を染めていた私は「株ほどうまい利殖の対象はない。頭一つで勝負できるところは自分の性分にも合っている」と考えるようになっていた。
二十三年六月、家内の実家の近所の人に、証券会社の設立を準備していた天沼両平さんを紹介された。日本橋高島屋前に仮事務所があった東京自由証券のスタートは、専務の天沼さんのほかに、社長と会計係、それに見習いの私の総勢四人。将来、証券会社を経営するための勉強が目的だったので、「無給でいいから何でもやらせてくれ」という条件での入社だった。
取引所で正式な立会が再開するのは二十四年五月。入社当時は日証館(今の東京証券取引所横)の廊下に各社から人が集まり、騒然とした中で取引が行われていたヤミ市場(集団売買)の時代である。私は丁稚(でっち)奉公のつもりで、事務所の掃除から雑用の使い走り、日報取りなど何でもやった。
立会場と証券会社をつなぐ電話を「場電」と言う。まだ電話がつながっていなかった当時は、各社から二人ずつ立会場にやって来て、一人が小さな紙に記録してあるその日の引値を読んで、もう一人が帳面にメモを取り、会社に帰って同じ要領で黒板に書き写すことをやっていた。
私は一人で行って株価を記憶し、黒板にそのまま書いた。皆さんは記憶力を感心する半面、気味悪がったが、前日の株価を覚えておく準備と注意力の問題だと思う。当時活発に取引されていた株は今の十分の一以下の百五十銘柄ほどだった。
無給社員の半年間で証券会社の仕事を一通り経験した私は、翌二十四年の一月から、東京自由証券の歩合外務員として独立した。外務員は証券会社に所属するが、自分の顧客を持ち、顧客の注文を取り次いだ手数料が収入のすべてといういわば個人商店だ。
営業マンが十二―十三人になっていた会社の収入(手数料=月三十万円程度)の半分、十四万―十五万円は私の顧客の注文だった。外務員の歩合はその四〇%だったから、私の稼ぎは月に五万―六万円にはなった。自分でも相場を張ってもうけたが、それを別にしての収入だ。大卒新入社員の初任給が一万円に満たなかった時代である。
私は結婚以来今日まで、家内から小遣いをもらったことがない。給料は袋ごと渡すが、自分のカネは自分で管理している。余計なことはしゃべらない方なので、家内は私がどれぐらいカネを持っているか知らないはずだ。趣味も道楽もなく、カネを使う暇もないのは、昔も今も変わっていない。
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知恵盗み相場に応用
最高の師、勉強の励みに
高橋亀吉先生
他人を頼らない主義の私にも恩人はいる。東京自由証券の専務だった天沼両平さんがその一人だ。証券界入りでお世話になった天沼さんは、自分の顧客のある人を紹介して下さった。私が尊敬してやまない最高の師、高橋亀吉先生である。
青山の先生のお宅に初めてうかがったのは昭和二十三年の夏だった。大学者の先生が私を認めて下さったのは、ドッジデフレによる株式相場の暴落がきっかけだった。
ドッジ博士の竹馬経済是正、いわゆる復金インフレ退治のため、二十四年度の財政が超緊縮型になるという観測は早くから流れていた。株式相場はインフレを背景に高騰を続けていたが、高橋先生は「強力な引き締めが実施されれば株は暴落する」とおっしゃって、二十四年の一月に持ち株全部を売ってしまわれた。
「相場は間違っている」と言う先生に、私は「投資家全部が先生と同じレベルならば、先生の言われるようにすぐ暴落するかも知れませんが、投資家はマチマチですから相場の山はズレる可能性がある。その限界でお売りになっては」とお勧めしたが、聞いて下さらない。私は二カ月後に自分の株を処分した。
三月に天井を付けて十月以降暴落したこの時の相場で、先生は百万円の財産を十倍の一千万円に増やされたが、私の方は十万円が一千万円に百倍に増えた。二カ月の売り時の違いで三十六歳年上の先生の財産に、一年足らずの経験の若造が追いついてしまった。
その後、先生は売り買いのタイミングについて、一言も言わずに私のアドバイス通りになさった。ただ、私がいくら「戦後派の会社でこれから伸びる企業を」とお勧めしても、先生は電力や紡績など戦前派の株しか買われなかった。
先生は日本経済の大きな流れを捕らえて間違えられたことがなかった。高橋経済理論の神髄は金融的な経済の見方にある。「金融が分からないと経済は分からない」と言われ、三十四歳の時に書かれた『金融の基礎知識』は最も自信のある本の一つと言っておられた。
私は先生の知恵を盗み、株式相場に応用すればよかった。財閥解体・財産凍結とインフレで、戦前と戦後のカネと株のバランスは一対一から二百対一になっていたので株価が吹き上げるというようなことは、高橋理論を応用すればすぐ分かった。
先生は為替も勉強されていて、明治以来の日本経済の発展は為替が安かったことが原因と分析され、国際収支の動きから景気の天底を絵に描いたようにつかまれた。
日本経済は好景気が続いて国際収支が赤字になると人工的な不況政策が取られて景気が後退する、ほぼ四年周期の変動を繰り返した。こうした経済のクセを知っていれば、株式相場はかなり正確に予測できた。
先生のもう一つの長所は、独学で大学受験の資格を取られ早稲田大学を卒業された、たたき上げの人で、人間観察に優れていたことだ。経済には心理学的な要素があり、人心の機微、大衆心理を理解できる人は景気判断が的確である。私は先生に親近感を覚え、勉強すれば自分もやれるという励みにもなった。
五十二年に先生が亡くなられた時は「石井のやつ、師匠がいなくなってへこむのでは」と言われた。しかし、私は高橋理論の免許皆伝を内心で自負していた。生前、お会いして質問する時に想定答案を用意して行くと、ほぼその通りの答えが返ってくるところまで「先生ならどう考えるか」が分かっていたからだ。
先生は寡黙で、自分の勉強にならない人と会って無駄な時間を費やすことを嫌われた。友人知己も少なかったが、私は中華料理が好物と知っていたから、食事にお誘いするとニコニコしてお出かけになった。
ノーベル賞ものだと思う先生の業績を、世間が私ほど評価しないのはどうしてなのか。高橋先生に巡り合わなければ、私の証券界での実績は今日の三分の一か十分の一でしかなかったと思う。
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朝鮮動乱で買い推奨
特需景気、ダウ倍増を予言
無給記者
私は昭和二十四年八月から「独眼流」のペンネームで株式新聞に記事を書き始めた。株式新聞の創刊準備をしていた産経新聞出身の小玉哲郎さんに、天沼両平さんが「勉強好きな男がいる」と私を推薦されたのがきっかけである。
「独眼流」は、奥州の覇者「独眼竜」こと伊達政宗と私が同じ星(五黄の亥)の生まれであることにちなんだ命名で、猛勉強で自信を持ち始めた私は「相場の世界で一流一派の始祖たらん」と意気に燃えていたのも事実だ。
小学校のつづり方以外に文章を書いたことのない私は、何事も勉強だと思い、使い走りのつもりで引き受けた。ところが、小玉さんにもらった名刺は「編集主任」。私は歩合外務員の片手間の手伝いだから「専属にはならない代わりに、給料もいらない」という条件で、「主任」の肩書を返上した。
最初に評判になったのは、十月一日付の「独眼流の独り言」と題した積極売りの記事だった。ドッジデフレで戦前の昭和恐慌、金解禁を上回る不況になると見た私は、楽観的だった一般の見方とは正反対に相場の暴落を予想して、「業界百五十の大小名の将軍連、何名血路を拓いて生き残れるや、来年四月春爛漫の桜と共に見ものであろう」と書いた。
相場は十月以降急落。証券会社の経営破たんも続出し、東京では登録業者百七十八社中二十九社が脱落、全国では二十五年だけで百六十五社が営業を廃止した。二十六年六月の信用取引制度や投資信託の発足は、株の需給を改善して苦境に陥っていた証券界の助けとなった。
緒戦に勝ち、ドッジデフレの暴落をだれよりもうまく切り抜けた私は大いに自信をつけたが、失敗もした。二十五年の「ヘタ株」売りで大損した件である。
沈滞した相場の一方で店頭売買が盛況を極めていた。特に集中排除法の指定を受けた大企業の分割新株や第二会社の株式割り当ての株の権利を上場前に売買する「権利売買」が活発で、過熱人気から株の受け渡しが中止された旭硝子事件は有名だ。
制限会社に指定された三菱本社は二十五年一月に経営と土地建物が三分割されたが、私は分割会社(三菱地所)の権利株売買で売り方に回り、二月早々から十四日まで積極的に売り向かった。ところが節目と見た十四日の株価は予想外に強く、最早これまでと手じまった。買い戻しが終わった一時間後に相場は暴落。タイミングの一瞬のズレで勝負に負けた一戦だった。
朝鮮動乱が勃発した二十五年六月二十五日は日曜日だった。終日自宅に引きこもって考えた私は、「株は買い」の結論に達した。まだ太平洋戦争の記憶が鮮明な当時、物資不足を予想してカネをモノに換える換物運動が起きたが、局地戦で終われば日本は漁夫の利で潤うはずだし、万一第三次世界大戦になれば何をやっても無駄だから、ここは株に賭(か)けるべきだと考えたのだ。
六月二十七日付で「投機家出動の好機」の記事を書いた。一進一退だった株価は、翌二十六年には年末のダウが年初比六割高に上昇した。
二十七年五月三十日付で「売ってはならぬ 革命的な利回り修正相場」の記事を書き、そして「ダウ 1ドル」(三百六十円)相場を予言した。特需景気で日本経済は大発展期を迎えるという高橋亀吉先生の経済観測をうかがい、株式相場に革命的な変化が起きることを確信したからだ。ダウ二百円の当時は「ハッタリ」と言われた一ドル説は、同年十二月十二日に実現した。
この間、ドッジデフレの相場急落で経営危機に陥った東京自由証券から、私に経営をみてくれという要請もあった。しかし、千五百万円の赤字を消すための方法について、私の提案が受け入れられなかったのでお断りした。東京自由証券は二十五年五月に廃業届を出し、外務員の私は大東証券に移籍した。
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スターリン暴落ピタリ
中傷に嫌気、新聞社を去る
退却ラッパ
昭和二十七年になると、私は株式新聞の仕事に専念するようになった。私を評価してチャンスを与えて下さった小玉社長への恩返しのつもりだった。条件は「編集を任せてもらう」「退却ラッパを吹いたら辞める」の二点。無給を押し通した。
それまで私は「独眼流」の正体を隠していた。小玉さんから「日興証券の遠山社長(元一氏)が独眼流に会いたいと言っている」などといった話を聞いたこともあったが、駆け出しの若造であることが分かればどう思われるか想像がついたからだ。
株式新聞に書きまくり、地方の証券会社が主催する講演会に呼ばれて全国を回った。交通事情の悪かった当時のこと、泊まり掛けの出張が多かったから、一年で三百日は家を留守にする強行軍だった。
講演の最後には必ず「新聞を取って下さい。年間千数百円で皆さんの財産が保全されれば保険料としては安いはず。退却ラッパを吹くのでしっかりもうけて下さい」と締めくくった。講演会を主催した証券会社への注文が増えたのはもちろんだが、株式新聞の発行部数も一年足らずで六千部から十二万部に激増した。
いよいよ公約を果たす時が来た。ダウ三百六十円を超えて急騰した相場は、過熱して二十八年二月には次の目標と言ってきた四百六十八円を達成した。買いたい投資家が皆買ってしまい、朝鮮戦争の和平接近の動きを見て私は総退却を決意した。
一月二十一日、あるスポンサーの招待で熱海に旅行した際、高橋亀吉先生に「相場はもう一―二週間しか持ちません」と話した。高橋先生は一月二十八日付の日経「大機小機」欄に警戒論を書かれた。
二月十一日付株式新聞のトップに「桐一葉・落ちて天下の秋を知る!」の見出しで退却ラッパの記事を書いた。これをきっかけに相場はならくの底に沈んで行った。三月五日のソ連首相スターリンの死、三月二十八日の休戦会談再開提案が暴落に追い打ちをかけ、四月一日にはダウ二百九十 五円十八銭まで突っ込んだ。わずか二カ月で高値からの値下がり率三七・八%は、今日なおスターリン暴落として記録に残っている。
この記事は一週間、載せる載せないでもめたいわくつきの記事だった。編集の記者連中も皆、掲載に反対だった。「間違えたら新聞の名声が吹き飛ぶ」「もっとはっきりしてからでもいいではないか」と言うのがその理由だった。私は「読者に約束した義務がある」と小玉社長にかけあって了解を取った。
スターリンの死は余計だったが、私は読者への約束を果たすことができてホッとした。しかし、売りの予測は当たっても嫌われるのが証券界である。「相場を壊した張本人」に始まり、「石井は空売りでもうけるために書いた」と言う中傷まで受けた。この時の非難に対しては「静かに時の判決を待つ」と題した弁駁(ばく)の記事を二月十三日付で書いて、私は株式新聞から身を引いた。
無給記者生活は「事件」直後に終わるが、小玉さんには「もっとやってくれ」と言われた。証券会社を経営するつもりだった私は、寄り道にはなるが、期限付きならば引き受けてもいいと思った。
ある考えがあったからだ。それは、新聞の経営は能力のある人に任せるべきで、広告に依存せずに部数で食うためにはもっと高い原稿料を払って内容のある記事を載せる、編集トップには日銀総裁や大蔵大臣が意見を聞きにくるような見識を持つ人をあてるべきだ、そうすれば証券界に役立つ立派な新聞ができる――と言う私なりの理想があった。
私は小玉さんに「経営能力のある専務と当代一流の編集局長を招へいして、記者の給料を二倍に引き上げるなら、あと二年だけやって部数を三十万部に増やしてみせる」と言ったが、条件は受け入れられなかった。
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高度成長の芽 感じる
格言無視し論理的な相場観
朝鮮動乱
昭和二十五年六月に突発した朝鮮動乱で、日本は漁夫の利を得た。今日の日本経済の大繁栄は朝鮮動乱のおかげである。併せて、私も飛躍のきっかけをつかませてもらった。
日本を北清事変(明治三十二年)以前の経済状態にまで弱体化するという米国の占領方針は、朝鮮半島の緊張で、共産主義の防波堤にするための経済力強化へ大転換した。私は自分がいた九州飛行機で、占領軍の賠償指定を受けて封印された工場の設備が、撤去されるどころか指定解除になったと聞いてその変化を肌で感じた。
特需景気の最初の一年で稼いだ外貨は第一次世界大戦の四年分を上回る二十五億ドル。企業の収益は大幅に改善し、日本経済の飛躍に必要な原材料、設備の購入資金となった。
株価を構成する三要素は、価値と需給と人気である。価値とは企業収益のことで、金融(カネ)と株の関係が需給だ。私は、「この戦争が契機になって日本経済は伸びる」と言う高橋亀吉先生の説を信じた。
経済が高成長すれば株価は上がる。インフレで企業の資本金は相対的に小さくなり、過小資本の状態に陥っていた。戦前は企業の売上高と資本金がほぼ一対一だったが、その当時は売上高の三分の一、五分の一の資本金の会社がザラにあった。資本金が少ないのだから、企業はやがて増資をするはずで、またとない投資のチャンスが生まれる。
「休戦が成立したから、輸出が減って景気が悪くなる。株は売り」と言う人がほとんどだったが、企業は一年間の特需で膨大な利潤を獲得し、資本金に対して三〇〇%、四〇〇%の好収益会社があった。株価が企業の業績にふさわしい水準にまで上がっていれば別だが、配当金額を株価で割った利回りが一割五分以上に放置されていた。
株価は利回り一割まで買われてもおかしくない。これが「ダウ一ドル(三六〇円)」相場を予想した根拠だった。第三次世界大戦懸念で物に走っていたカネが休戦で株に戻ってくれば、実態価値への復元運動で株価は上がるという読みは当たった。
人気は目先の相場を動かす最大の要素でクセ者だが、講演会の反応から投資家の心理が手に取るように分かった。退却ラッパを吹けたのは、行き過ぎをはっきり感じたからだ。
経験不足を補うために必死で勉強した。明治十一年以来、七十年の取引所の歴史も調べ、失敗の研究をした。どうすれば成功するかは本当のところは分からないが、どうして失敗したかなら分かる。成功するには失敗しなければいいと考えた。
明治の後半の埼玉にあった銀行家の弟で「株成り金」の言葉を生んだ鈴木久五郎や、松谷天一坊の話を本で読んだり、人に聞いて研究した。皆さん相場で大もうけすると、例外なくおごって、別荘を持ち、女を囲い、書画骨董(こっとう)にうつつを抜かしたり、有名人と付き合って身を持ち崩した。その逆をやればいい。証券界に入って四十五年、今日まで自分の生活を変えなかったのは、失敗しないためである。
昭和二十年をもって日本を取り巻く国際環境は様変わりし、協調的な国際関係は資源のない日本経済に有利に働くはず。軍事機密だった経済統計が公表されたことで、経済の予測可能性は格段に高まった。株式相場も投資戦略も戦前とは変わって当然だ。過去の経験は役立たないばかりか、むしろマイナスになると思ったので、相場の格言も無視した。
戦前からの相場格言には、「三月またがりの六十日が一相場」「三割の高下には向かえ」「天井三日、底百日」などがあった。
低成長だった戦前は十年に一度の戦争景気が終われば、すかさず弱気に切り替えての売りが成功の秘けつだった。しかし、長期高度成長に変わった戦後は上昇相場が基本で、「天井百日、底三日」に逆転したのだから強気の買い一辺倒が勝つ。
経験と勘が頼りだった当時、因果関係を分析し、数字を使って論理的に結論を導く私の相場観測は、予言の類とみなされた。最近でこそ、証券市場を勉強する学者も増えてきたが、まだ当代一流の人が研究する分野と思われていないのは残念なことだ。
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会員制で信者に報恩
理想の証券会社へ第一歩
石井株式研究所
株式新聞から身を引いた私は昭和二十八年三月、兜町に資本金六十万円で石井株式研究所(合資会社)を設立した。時には手伝いに駆り出された家内も含めて、総勢数人のささやかな出発だった。
証券会社の経営を目指していた私が、研究所をつくったのには理由がある。証券会社を始める準備がまだ整っていなかったので、そのつなぎの意味が一つ。「独眼流」の記事で相場を暴落させたと非難され、「書きっぱなしで逃げた」と言われるのが嫌だったから、読者と信者への報恩の気持ちもあった。従って、研究所を長くやるつもりはなかった。
私は、証券業者はその頭の善しあしで顧客の損得が決まる頭脳産業だと思っている。相場は水物と言うが、勉強すれば八割の確率で成功するはずだ。歩合外務員のころからそう考えて、同じ手数料を稼ぐにしても顧客の数を増やすより、顧客の財産を増やした方があくせくせずに済むと思ったので、私の顧客は十五―十六人以上には増やさなかった。
私が理想とした証券会社は、不特定多数の顧客を相手にするのではない会員制の組織だった。会員は一万人以上には増やさず、我々は一万人の出資者の会員の執行部に過ぎないという協同組合のようなものをつくりたいと考えていた。
四十年の証券不況の後、四十三年に証券会社が免許制になって勝手が許されなくなったが、私は今でも会員制が理想だと思っている。石井株式研究所は、そのような夢に近づく第一歩でもあった。
「独眼流株式速報会員募集」の広告を日本経済新聞(三月一日付)と朝日新聞(三月四日付)に掲載した。そこで強調したのは「買い時期、買い銘柄だけでなく、売り時期、売り銘柄を併用する投資家のガイド」という点だ。株式投資は売って初めて利益が確定するにもかかわらず、当時も今も売り情報が不足して顧客の要求を満たしていないように思う。
朝日新聞がこの種の広告を受け付けるのは珍しいことで、顧問に就任していただいた高橋亀吉先生の信用だったと思う。先生は次のようなあいさつ文を寄せて下さったので、設立趣意書に使わせていただいた。
「これまで私は、この種顧問等の名義に関する依頼を一切御断わりして参りましたが……(石井君は)私の一般論の要点を的確鋭敏に掴んで実践に応用する才能に秀でており、加うるに非常な勉強家でもあるので、この点も心配ないと考えたからであります」
会員は普通会員、特別会員、電報会員の三種類で、年会費は最高一千六百円。当時としてはかなり高額に設定した。株式新聞で十二万人の読者を獲得した実績があったので、それだけの価値を認めてもらえるだろうという自信はあった。
スターリン暴落の直後で株式市場が気息奄々(えんえん)としていた三月十一日、高橋先生を講師に日本経済新聞社新館ホール(茅場町の旧社屋)で開催した創立記念講演会は、超満員の大盛況だった。
当初、会員が五百人も集まれば出だしとしては上々とみていたが、フタを開けると連日のように申し込みが殺到した。会員は結局、予想した六倍の三千人に膨らんだ。
研究所は会報のサービスのほかに、月一回の無料持ち株健康診断(非会員は一回三百円)を実施したので、仕事は超繁忙だった代わりに採算も良かった。経費は人手と手紙の印刷代に郵便・電報代だけ。忙しくなって人を増やしても社員は五―六人だったから、もうけは推して知るべし。
研究所でも十分食って行けたと思う。しかし、目標は証券会社の経営で、三千人の有力な潜在顧客を獲得できた。私は証券界に入った時、家内に「十年で一国一城の主になってみせる」と言っていたが、半分の五年で「公約」を実現することになる。
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昭和28年(1953年)頃の筆者。自宅にて
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借金なし、自力で創業
素人社員を集め陣頭指揮
江戸橋証券
兜町入りして五年、石井株式研究所をつくって半年の昭和二十八年九月、江戸橋証券を設立した。資本金五百万円、社員総数十三人。会社は業界最後発、三十歳の私は業界最年少の経営者だった。
実は、二十六年に山三証券(その後、今川證券と合併)の再建を頼まれ、証券経営の臨床実験もした。六千万円の簿外負債を抱えた会社をあっと言う間によみがえらせることができたのは、市況が良かったからだが、人の使い方や経理の勉強になった。
見習い社員、業界紙記者もそうだったが、この時も半年と時間を区切って、無給、無報酬で引き受けた。目標は証券会社の経営であり、そのための勉強である。カネをもらえば縛られて辞められなくなる。
会社設立当時、ある程度の資金の持ち合わせがあったので、他人の出資を仰ぐ必要はなく、運転資金も自前で賄った。相場を当てていたとはいえ、経験の浅い若造に銀行はカネを貸さなかっただろう。当時は銀行融資に序列があり、証券業は優先順位が最も低かった。だれの力も借りず、後ろ盾もない自力だけの創業だった。
十三人の数字は、私が十三人兄弟だったことも頭にあったが、戦後の株式相場には戦前の経験が役に立たないと考え、過去にこだわるような経験者を一切採用しないという方針を貫いた結果でもある。全員素人だった。小さく生んだことが幸いし、ドン底での創業だったにもかかわらず、会社は初年度から黒字を計上できた。
相場観測は私一人がやる。「石井はこう言っている。それはなぜか」を五分間社員に説明して、「お客さんにその通りお話ししなさい」と教えてやる。相場の曲がり角、売りと買いの時期だけを指示すればよい。買い一辺倒が成功する時代だと信じたからこんなことができた。
実際、「利食い千人力」などと言って小刻みに売り買いを繰り返した人よりも、一本調子の買いが成功した。石油危機までは「買ったが最後、テコでも売るな」と言う私の戦法で大筋間違いなかった。
株式投資の要諦(てい)は、大天井と大底で間違えないことに尽きる。二十九年の反動不況の中で国際収支の改善を確信した私は、「もはや戦後ではない」(三十一年度版経済白書)と言われた神武景気(三十―三十二年)の到来を読み、だれよりも早く強気を唱えた。
三十二年早々の国際収支の赤字化で引き締めを予想すると、五月四日には天井直前で売り方針に転じた。国際収支の制約による最初の人工不況の三十二年には「勘定合って銭足らず」の黒字倒産が続出した。
天井をうまく売ったお客さんに「おカネを休養させるために預けておいてください」と言っても、なかなか聞いていただけない。証券会社が金利稼ぎのために言っていると見られがちだが、お客さんが自分から動いて自滅することも少なくない。カネを休ませることのできない人は、金持ちにはなれない。
三十一年九月には、商品相場の仲買人の江戸橋物産を設立した。好不況の波が大きい証券会社経営の安定を図ることと、現物株の経験しかない私は、いずれ先物取引が証券市場に導入されると考え、その勉強の狙いもあった(実際に先物取引が始まるのは三十二年後の六十三年)。
当時の株式市場は現物取引と信用取引だけだったが、商品市場では実物の裏付けのない清算取引が行われていた。純粋な投機に近い先物取引は理論的に現物とは違うし、ばくち性が強い分、心理面の研究が欠かせないと思った。
江戸橋物産はその後、業界五指に入るほどの業績を上げて収益的に大いに寄与したが、証券業との兼業が禁止されたため、三十八年に廃業、私個人の持ち株会社として今日に至っている。
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昭和31年(1956年)頃の江戸橋証券の社屋
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念願の東証正会員に
不況よそに初年度から黒字
立花証券買収
東京証券取引所の非会員である江戸橋証券は、証券会社を初めて経営する私にとって、いわばテストプラントだった。非会員会社は正会員会社に手数料を払って株を売買しなければならなかったから、証券会社としては分が悪かった。証券会社の経営に自信を深めた私は、正会員会社の売り物が出るのを手ぐすね引いて待ち構えた。
昭和三十年から三十二年にかけての数量景気(神武景気)が終わり、三十二年五月に株式相場が暴落するとチャンスが巡ってきた。
太陽生命会長でもあったオーナーの西脇済三郎さんが「証券会社を手放したがっている」と言う話を持ってきてくれた人があった。それが、当時百社あった正会員会社のドンじりに近かった資本金一千万円、総員三十二人の立花証券である。
立花証券の社名は、オーナーの西脇家の家紋に由来する。西脇さんが証券会社を手放すつもりになったのは、立花証券が大幅な赤字を抱えていたことのほかに、法令で正会員会社の最低資本金が三千万円に引き上げられ、追加出資を迫られていたことが理由だった。
すぐに内容を調べると、確かに赤字ではあったが、元々規模が小さかったので簿外の負債などのいわゆる「腐れ」は少なかった。何よりも、オーナーが一族で一〇〇%株を持っていたので、複雑な出資関係も、いわく付きの因縁もないことが気に入った。私は即座に決断して買った。
証券不況の当時は、立花以外にも五―六社の売り物があり、中には従業員二百人規模の会社もあった。しかし、そういうものに限って、資本が一本でないために話がまとまらなかった。もしその時、二百人の会社を買収することができていれば、それだけの人員と基礎的出来高のある会社に、私どもの知恵を加えることで、今の立花証券の数倍の規模の証券会社になっていただろう。私にとっては他力(従業員)を借りる機会であったかも知れない。
三十二年六月、立花証券を買収して念願の正会員会社の経営にたどり着いた。証券界に入って九年目、三十四歳になったばかりの私は、社員総数六十人、資本金三千万円の証券会社のオーナーになった。商権と従業員を立花証券に引き継ぎ、江戸橋証券は清算した。
買収価格は会員権の三千万円と、四十坪の土地の含み益などを計算した評価額の六千九百万円から、赤字分を引いた五千万円弱だった。私は個人でも、買収金額の数倍の蓄えがあったので、この時の買収でも借金の必要はなかった。
赤字の正会員会社の買収は非会員会社にとって大きなチャンスである。私は一年そこそこで黒字にできると思ったし、はじめから一年で元が取れる買い物と計算していた。
非会員会社は当時、正会員会社に取次手数料として、顧客から受け取る手数料の四〇%を支払っていた。江戸橋証券の出来高の実績からみると、投下資本の五千万円は一年分の取次手数料で相殺できる金額でしかなかった。現在、東京証券取引所の会員権相場は十五億円ぐらいしているが、取次手数料が二〇%弱だから、今の立花証券の出来高ならば三年で元が取れる計算になる。
企業の買収や合併で面倒なのは、何と言っても従業員の処遇などの人事問題である。通常は、人がすべて辞めることを買い取りの条件にするのだが、私はむしろこちらから従業員全員が残ることを条件とした。テストプラントの江戸橋証券では、あえて経験者を採らなかったが、いずれ株式市場が立ち直り、これまでにも増して大相場が来るという確信があったので、人材は貴重な戦力になると思ったからだ。
スターリン暴落のドン底での江戸橋証券の設立に続き、神武景気の反動不況の最中での立花証券の買収である。用心深く、自分の資力の範囲内で、計画通りに手順を踏んで進めてきた証券会社経営の体制がこれですべて整った。
三十三年はナベ底景気が喧(けん)伝されたが、新生立花証券は江戸橋証券と同様に初年度(三十三年九月期)から黒字を計上した。
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昭和26年(1951年)7月、東京証券取引所の会員名簿。
資料提供:渡辺俊司氏
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自ら講演、強気一本
電話注文受け二十傑入り
布 教
立花証券の新発足に当たり、三十四歳の社長の私は三年計画を発表して社員に協力を求めた。
1.三年で社員を五十人から二百五十人にする
2.資本金並みの三千万円の月次利益を実現する
3.東証正会員九十九社中、出来高二十位に入る ――というものだった。だれも本気にしなかった。
だが、私には使命感と成算があった。株が何よりも有利であることは歴然としていたし、だれよりも強気であった。そのことを訴えることは自分の使命と考え、そのための手段を総動員した。経営者としては邪道と思われようが、株式の投資家を増やす、信者を増やすにはどうすればよいかを第一に考えた。株式投資の宣教師を自任した布教である。
業界紙で不特定多数を相手に本音を語ることの難しさを経験して、石井株式研究所で会員制の実験をした。記者時代の講演は新聞の部数拡張の宣伝が狙いだったが、目の前の聴衆の反応は市場の人気(大衆心理)を居ながらにしてつかむ格好の場だった。体験をフルに活用して既存の証券会社とは違う経営を実践した。
昭和三十三年に、当時は大手四社ぐらいしか出していなかった顧客向け投資情報、「立花月報」を創刊。社長の私自らが相場展望を書き、顧客に立花証券の相場観測を訴えていった。「立花月報」は後に「株界月報」と表題を代え、週報、旬報に形を代えて今日まで続いている(注: 平成七年一月より再度「立花月報」に変更)。
五年前に私が会長になって第一線を退いた後は、社長の福園一成君が毎号署名入りで展望を書いている。トップがリスクを負って相場観測を書いているのは立花証券だけだろう。三十四年入社の福園君は、その年に新設した企画部調査課の初代課長である。
講演会も重視して、年末恒例の新年の相場展望以外に、必要に応じて開催した。投資家が指針を求めている時に、その関心の演題で、一流の講師を用意することを心がけた。聞く側の都合に合わせれば、話す側は予測しにくい時期になる。予測が当たらなければ、次からお客は集まらなくなる。
三十四年から三十六年の岩戸景気の初期には悲観論が充満していたが、私は強気を押し通した。三十四年の一年間で立花証券主催の講演会は七回を数えた。高橋亀吉先生や、池田内閣のブレーンだった下村治さんなど当代一流のエコノミストによる経済予測の後が私の出番だ。聴衆が聞きたいのは、株は売りか買いか、どの銘柄がもうかるかだから、私の話が目当ての人も多かった。トップ自らが自社主催の講演会で相場観測を語る証券会社は少なかった。
講演会の新聞広告にも気を使った。同じ演題と講師でも、広告段数で客の入りがかなり違う。天候の影響もある。よく使った当時のサンケイホールや日比谷公会堂で閑古鳥を鳴かすわけにはいかないから、過去の統計を読んで費用対効果を最大にするよう考え抜いた。もう一つの新趣向が通信取引だ。繁閑の差は証券業の宿命で、相場の好不況によって収入に十対一の開きができる。地域性が強く支店が不可欠な金融機関とは違い、証券業の支店は効率が悪いと考えた。顧客の注文を電話で受ける通信取引のシステムを作り上げて無駄を排除した。
まだ、電話で大阪を呼ぶのに一時間、福岡だと一時間半はかかった時代だが、やがて全国の自動通話化が実現するはず。支店を出せば、法定帳簿を付け、小切手を切り、給料計算するための人手がかかるし、社員寮も必要になる。東京都内の新宿、池袋、渋谷に営業所を置いたのは本社が手狭だったからである。都内の営業所の場合、間接部門は少なくてすむ。当時の直接部門と間接部門の比率は七対三で採算がよかった。
こうした思想を貫いた上での積極路線は当たった。三十二年の買収時に正会員九十九社中のドンじりだった立花証券の東証出来高順位は、三十五年には月次でコンスタントに二十位以内に定着するようになった。
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↑ 当時の株式講演会の様子
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→ 昭和32年(1957年)、旧立花証券と合併。ショーウィンドウに「株界月報」も文字がみえることから、写真は昭和34年(1959年)頃の経理部の記念写真と思われる
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仕手戦避け正攻法で
理論と実践、自信の陰に勉強
所得倍増論
昭和三十五年七月、日米新安全保障条約の強行採決による混乱の中で池田内閣が発足した。神武景気からナベ底景気を経て岩戸景気に至る三十年代は、日本経済が飛躍を始めた時期である。戦前戦後を通じて初めて経済に明るい総理のこの時期の就任は、日本にとって幸いだった。
臨時国会(十月)の施政方針演説で「十年以内に国民所得を二倍以上にすることを目標に、計画の前期三年間は年平均九%の経済成長を目指す」という所得倍増十カ年計画、経済成長三カ年政策が発表された。
総選挙を控えていたため、人気取りと受け止めた人も多かったが、私は人間の年齢にたとえれば、十歳になった日本経済が背丈をどんどん伸ばす時期に差しかかったことを確信して、それまでにも増して強気で相場に臨んで行った。
ところで、世間では私を相場師と見ていらっしゃる方が多いようだが、私が相場を語ることから生じた誤解だ。
株で財産を作ったことは事実である。無給記者時代も株の売買で生計を立てていた。今は個人でやる場合、規則で勝手にできなくなったが、当時は証券会社の社員も新聞記者も相場を張るのが当たり前の風潮の時代だった。自分で真剣勝負もせずに、人に投資を勧める記事が書けるかという気持ちもあった。
三十一年七月のスエズ動乱(第二次中東戦争)では、運河の封鎖で喜望峰回りになるため海上運賃が二倍に急騰、船価も高騰して船株や非鉄株が人気化した。砂漠の戦は長引かないと思った私は、飯野海運の社長から「新船建造の船台を大量に押さえた」と言う話を聞いて即座に持ち株全部を売った。短期間で運河が再開すれば、運賃も船価も下がると見た予想通り、船株は暴落した。この時の思惑による船腹過剰がもとで、海運業界はその後集約に向かう。
非鉄株ではニッケル精錬の志村化工の個人大株主になっていた。会社から「ごあいさつを」と言ってきたが、私は「ニッケル市況と会社がどう対応されているかを聞かせてもらうだけで十分です」とお断りした。当時はニッケル市況の上下が激しく、株価は大きく動く時代だった。
しかし、株を買い占めて株価をつり上げるいわゆる仕手戦の経験は一度もない。「独眼流」が書けば株価が上がったが、いずれ上がるはずの銘柄に早く気付いて書いたに過ぎない。当たれば提灯(ちょうちん)が付くのはこの世界の常識だが、常に目立たないようにやってきた。相場は作るものでなく、乗るものという正攻法でやってきた。
会社も仲介業務(ブローカー)に徹した。当時の証券会社には自己売買の取引が出来高の相当数を占め、一部には半数を超すところもあった。先回りして仕入れた株を顧客に売ることも厳禁した。立花証券は昔も今も自己売買は五%程度、九割以上は顧客の注文の執行である。
強気を通したが、ばくちを打ったことはない。会社が今日この程度の規模なのは大もうけしようとしなかったからで、会社が今日存続しているのも大失敗がなかったからだ。
相場師で晩節をまっとうした人は皆無に近い。成功した人は野村証券の創業者の野村徳七さんのように、会社を大きくした人である。そのことを、失敗の研究で学んでいた。
貧農のせがれから身を起こして、兜町でのし上がった私の人生は、他人の興味を引くようだ。兜町出身の作家である清水一行さんが、五十六年の週刊宝石の創刊時に連載した『大物』は、私をモデルに面白おかしく脚色した小説である。三十三年ごろだったと思うが、城山三郎さんも「小説を書きたい」と言って来られた。私は「波乱万丈はありませんよ」と言ってお話はしたが、城山さんは書かれなかった。派手な仕手戦で大もうけしたり、逆に借金で首が回らなくなったりのドラマは私にはまったくなかった。
私は社員に「うぬぼれに近い自信を持て。そのためには勉強だ」と言ってきた。私自身も証券会社の経営者であると同時に、理論を実践で鍛えた経済学者だとうぬぼれに近い自信がある。人様はそう見て下さらない。学歴ゼロの人間だからだろうか。
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「会社は運命共同体」
貯蓄強制し社員に持ち家
合同結婚式
立花証券の第一次三カ年計画は岩戸景気の波に乗り目標を達成した。昭和三十五年、池田内閣の所得倍増計画にならい、三年間で全社員の所得を倍増する第二次三カ年計画を策定した。五年で日本経済は倍増するとみていた私は、会社は日本経済のスピード以上に伸びる時期に来ていると確信していたからである。
証券会社の財産は人であり、会社は社員全体の運命共同体である。そう考えた私は、電話の受けこたえから社員の手足を取って教え、会社の経理もガラス張りにした。自分の仕事の成果が分からなければ働く意欲もわかない。会社が大きくなれば昇進の機会が増え、業績が上がれば給料も増えて張りが出る。
特に、悪平等にならぬよう心掛けた。業界平均並みの給料は保証するが、あとは本人の努力と成績次第。利益の六分の一をボーナスで還元するルールを作って実行した。立花証券の業績は業界平均をはるかに上回っていたので、当時のボーナスが数十万円という者も珍しくなかった。
仕事ぶりはもちろん、社員全員の家庭環境まで知っていたから、人事考課で迷うことはなかった。社長の私だけが社内預金の閲覧権を持っていて、機会あるごとに眺めては、預金が少ない者は仕送りでもしているのかと履歴書と突き合わせた。
私はプライバシーの侵害と言われるぐらいに社員の個人生活にも干渉することが親切であり、義務ですらあると思っている。金銭的な欲求を満たしてやることは士気を高めるために不可欠だ。しかし、所得の急増でそれが飲み食いに使われたり、間違った方向に消費されてダメ男を作っては意味がない。そこでボーナスの全額強制貯蓄を条件に、住宅資金の貸付制度を作った。貯蓄が目標額に到達すれば会社がカネを貸す。それで家を買えという構想である。
経済が発展して所得が増えれば、土地の値段が上がるのは当たり前だが、土地価格の上昇を予測する向きは少なかった。当時は立花証券の部長クラスでさえ、アパートの間借りという人が多かった。私は「十年後に課長以上で家を持っていない者は、冷遇はしないが好待遇しない」と脅して貯蓄を強制した。今考えれば乱暴な話に聞こえるかも知れないが、結果的にほとんどの男子社員が家を持てたのだから、感謝されていいと思っている。
社員が家を建てると、上司の部長と一緒に新築祝いに出掛けて、「祝新築」の色紙と一万円の祝い金を置いてくる。家を見れば主がどの程度の能力者かが分かるし、奥さんはどんな人かを確かめておくことも無駄ではなかった。「困ったら色紙を持って来い。ある金額で買い上げてやる」と言って書いた色紙は三百枚以上になるだろう。
結婚の仲人も社員の家庭をのぞくチャンスになる。社内の皆さんに私という人間を理解してもらういい機会だからと積極的に買って出たが、若い社員が多く個人的に引き受けていたのでは時間のやり繰りがつかなくなった。「できればこう願いたい」と言って始めたのが春秋二回、東条会館での合同結婚式である。招待客は双方十五人ずつ一組三十人に限らせてもらい、引き出物は出ないが、挙式から披露宴まで費用は全額会社が持つ。浮いたカネは新婚旅行なり家財道具の足しにしてもらった。
こうして社内だけで二百組近い仲人をした。新聞、雑誌で有名になった「立花の合同結婚式」は、三十五年から三十九年の五年間で四十七組のカップルを誕生させている。
人がすべての証券会社の経営は、八割を社員との人間関係に向けねばならないと思い、実践してきた。このほかにも様々な行事、催しの制度があったが、四十八年の創業二十周年を機に制度を大幅に変えて今日に至っている。
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大天井前に「麦踏み」
早めにブレーキ、縮小均衡策
岩戸相場
株の有利性を投資家に訴えると同時に、私は相場と経営を一体のものととらえて立花証券のカジ取りをした。昭和三十五年の第二次三カ年計画では、所得倍増目標の一方で、役職者に休暇返上の戦時体制で当たることを求めた。規模の拡大を抑え、戦力をフルに活用する作戦である。
三十五年暮れのサンケイホールでの経済株式講演会では「三十六年六月を大天井と想定して、これより警戒体制に入る」と、それまでの強気を一蹴して「前途警戒」を訴えた。TBSテレビで実況中継したので大反響を呼んだ。過去三年の猛烈な設備投資で企業収益の低下が避けられず、国際収支の悪化から引き締めが予想されたことなどが理由である。「有難や節」がはやる岩戸景気の真っただ中であった。
予想より一月遅れの三十六年七月、ダウ千八百二十九円を付けて相場は暴落。九月に公定歩合と預金準備率と高率適用の引き上げ(トロイカ方式の引き締め)が発表され、十二月に千二百五十八円まで下げた。
悲観人気の行き過ぎを見て、年末に強気に転じた私は「さあ買おう勇気を出して」の新聞広告を出した。しかし、三十七年には国際収支の動向を悲観する政府内部の成長政策批判(藤山経済企画庁長官)が出て相場は低迷した。私は「相場が間違っている」と言って訴えたが、金融政策の転換の遅れなどから株価は下落、私の予想は外れた。
三十八年になると公定歩合の第三次引き下げなどで相場は急騰した。今度は先高期待が行き過ぎたので、三月に売り方針に転換した。四月に高値を付けた相場は、七月のケネディショック(ドル防衛の利子平衡税)で崩れ、立ち直れないままに四十年不況へと突き進んで行った。
株式相場と格闘する一方、私は岩戸相場の大天井対策に経営のエネルギーを向けた。「過去三年は人を増やして積極的にやってきたが、しばらくは麦踏みをやる」と宣言して拡大にブレーキをかけた。インフレを起こしていた役職者に肩書にふさわしい能力をつけてもらう必要を感じたからだ。三十八年六月の第三次三カ年計画では、質的競争の時代に入るので、最終年度の従業員を四百人以下に抑え、内部留保と社員の処遇に重点を置くことにした。
三十八年には新規採用を手控えた。同年九月の従業員三百四十五人は前年比で五人減り、三十二年の立花証券買収後初めての減員となった。翌三十九年四月には目黒と新橋の二つの営業所を廃止して、本社と池袋、新宿、渋谷、上野の四営業所体制に縮小した。
三十八年当時はまだ、証券業界は拡張期にあった。同年四月時点の全国証券業者数は六百二社、営業所数は二千九百四十二店で、大幅拡張が始まった三十四年末の五百四十二社、二千二百三十営業所に比べ、業者数で一割、営業所数は三割の増加である。従業員数は三十四年末の四万一千九百九十人が三十八年末には約二・四倍の十万八百七十人に膨らんでいた。
繁閑の差が激しい証券業は、好況期にむやみに支店や人を増やすべきでないというのが私の持論だ。規模が大きくなり過ぎると、限界を超えて無理やり顧客を勧誘するようなことも起きかねない。物品販売業や製造業と違って、株はノルマを課して売りつけるものではない。証券会社のトップの役割はただ「頑張れ」と言うのではなく、ブレーキを踏むことだと思っている。
縮小均衡策をとったが、資本金(当時六千万円)の十倍以上あった蓄積(純財産)を三年で三倍以上の二十億円に増やす目標を掲げた。営業所を減らして固定費を削減する一方、プッシュホンを全面採用するなど独自の通信取引システムを強化して、効率経営に拍車をかけた。四十年不況前の立花証券の決算のピークは三十八年で、業界全体のピークより二年長くもったのは、いち早く麦踏みに切り替えたからである。
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昭和37年(1962年)頃の東証立会場(左)と場電(右)のようす
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相場総崩れ、会社守る
証券界に骨埋める覚悟に
政治家断念
昭和三十八年は私の人生の分岐点になった年である。江戸橋証券の創業から十年、四十歳で政界に打って出る腹づもりだった私は、社長を指名して任せるために、会社をほぼ完ぺきな姿に仕上げた。しかし、計画は決行寸前でかなわぬ夢と消えた。
若いころから最終的な目的は政治家志望であった。働き者の両親の貧しい生活から、世直しを思い立ったという単純な動機だけではない。経済の知識と読みはだれにも負けない自信があったので、政治家になって日本経済や国家社会に奉仕したいと考えていた。
子供心に「天下に大を成す」野心を抱いた私は、進学の道を断たれて弁護士を目指し、インフレと結婚でそれもあきらめ、カネの力を借りて政界に出ようと証券界に飛び込んだ。他人の十倍の努力をして相場観測を磨き、会社を大きくして資力を蓄えようと考え、実行した。
たたき上げで人心の機微が分かるところは性格的に政治家向きだ。応援に駆り出された経験から選挙で大衆に訴えるコツもつかんだ。当時、人のカネを当てにしなくても派閥の領袖(りょうしゅう)になれるだけの十億円の蓄えもあった。三十数人の国会議員の派閥の維持費用が年に五千万円、選挙のたびに一億円のカネを配る資力があれば、と言われた時代である。陣笠で終わらないためには、遅くても四十歳で政界入りする必要がある。
立候補を公言した覚えはないが、抜き打ちでは困るだろうと思い、雑談で会社の役員には話していた。それが漏れて伝わったのか、郷里の福岡県選出の代議士の方が「今度の選挙に出るんですか」と聞きにみえたこともある。河野派幹部だった中曽根康弘さんに神楽坂の料亭に呼ばれて打診された時は、「(出馬の)可能性はありますが、河野派に行くとは限りません」とお答えした。
岩戸景気の反動不況で日本経済は低迷し、証券業界にも暗雲が垂れ込めていた。それでも、立花証券は三十八年九月決算で過去最高の利益をあげることが確実だった。
九月一日の創業記念日に、政界入りの計画を公表して社員の理解を得ようと腹を決めていた。その矢先に事態が急変した。七月五日の「坂野通達」(坂野常和氏は当時の大蔵省理財局証券第二課長)である。
通達は証券会社の経営の健全性を確保するために、財務管理上の厳しいルールを義務づけるものだった。同年三―四月の記録的な大商いで、運用預かりとして顧客から借りた有価証券を担保に多額の借金をするなどの勇み足を犯していた証券界は混乱に陥った。これに七月十九日のケネディショックが重なり、相場は総崩れになった。立花証券に問題はなかったが、環境が悪過ぎた。ここで身を引けば、私を信じて付いてきた社員を裏切ることになる。
私は政治家への転身を断念した。もしも、通達が三月か半年遅れて、相場の下落がもっと先になっていたならば、私は計画を行動に移していただろう。結果論だが、この後二年間、証券界は惨憺(さんたん)たる不況に突入、個人的には野心の放棄となったものの、敵前逃亡の汚名だけは回避できた。
政治に人一倍関心があったし、選挙応援に駆り出されて協力もしたが、仕事でも個人でも政治家とのお付き合いは少ない方だ。証券界が推した大平正芳さんや水田三喜男さんのほか十数人程度で、自分から求めて政治家に近づいたことはなかった。
証券界を終(つい)の住処(すみか)に決めてから、それまでにも増して勉強に打ち込んだ。相場で当たる喜びは、自分の予測が正しかったことが証明されることにある。経営に成功する楽しみも、頭脳産業の証券業で見通しと作戦が正しかったことの確認にある。自分の財産が増え、会社が大きくなることはその結果に過ぎない。
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日銀総裁に対策直言
小型株でゲリラ戦、黒字守る
四十年不況
私の政界転身の夢を打ち砕いた株式相場の急変は、その後深刻さを増して昭和四十年五月の日銀特融で頂点に達する証券不況に発展した。
四十年不況の原因ははっきりしている。遠因は岩戸景気の末期の三十五、三十六年の暴飲暴食にある。企業は政府の所得倍増計画を三年で前倒しする大幅な設備投資の行き過ぎ。証券市場では三十五―三十六年の二年間に六千億円ものカネをかき集めた投資信託ブームの行き過ぎがあった。国際収支の赤字で日銀がブレーキを踏み続け過ぎて、政策転換の潮時を誤ったことが近因である。
私は不況を致命的なものとは思っていなかったから、三十八年三月まで強気を唱えた。行き過ぎはあったが、日本経済は十代の伸び盛りに差し掛かったところで、景気の見通しも悪くはない。国際収支の制約からくる人工的な不況であった。
しかし、株式相場は下げ続けた。三十九年一月、銀行・証券十八社の出資で株の買い支え機関、日本共同証券が発足した。三月から買い出動した共同証券は一時相場を支えたが、一年近くで二千五百億円の株を買い上げたにもかかわらず、相場の下落に歯止めを掛けられなかった。三十九年の十二月ごろだったと思う。退任間近の山際日銀総裁に呼び出されて意見を聞かれた。野村證券社長の瀬川美能留さんや東京証券取引所副理事長の田口真二さんが私を推薦されたのだろう。不穏当な言動になるので公の場では発言しなかったが、私が「共同証券方式の買い支えは成功しない」と言っていたのを耳にされたのかも知れない。私はひとりで総裁を訪ね、率直に考えをお話しした。
「株価と株は別です。株を買うから成功しないのです。欲しいのは株価ですから、株とはどういうものかを勉強すべきです。売り玉を棚上げして元を止めれば下痢も止まるはずです」。
総裁室では秘書がメモを取っていたが、山際さんは何もおっしゃらなかった。
私の意見が受け入れられたかどうかは分からない。証券界が投資信託の組み入れ株を肩代わりする棚上げ機関の構想を大蔵省に伝えたのは、暮れも押し詰まった十二月二十五日。日銀総裁が山際さんから宇佐美さんに代わって間もない年明け早々の四十年一月十二日、日本証券保有組合が発足した。保有組合は投信から二千億―二千五百億円の株を肩代わりして相場の崩壊を救った。
三月六日、山陽特殊製鋼の倒産でダウは防衛ラインといわれた千二百円を割った。千百円を割った五月二十八日深夜、田中蔵相と宇佐美総裁の特別記者会見で、山一証券に対する日銀法第二五条の発動が発表された。日銀の無担保、無制限融資の非常措置は関東大震災、昭和金融恐慌以来のことである。相場は七月にダウ千二十円をつけて反騰した。
ダウ千二百円防衛の過程を立花証券は何とかしのいだ。根本的な不況とは思わなかったし、株の配当利回りが五―六%もあったので、顧客に買いを勧めたのだが、いかんせん極端な悲観相場だった。二部株や小型株を目立たぬように売ったり買ったりして手数料を稼がせてもらった。中小証券なるが故に許されると思ったが、心苦しいことではあった。
四十年七月二十七日、戦後初の国債発行の政策決定で、積極買いの営業方針に転じる一方、立花証券では事務処理の合理化に取り組んだ。四十年早々に検討を始めた第一号のコンピューターを十一月に導入した。大量の伝票や保管用紙を瞬時に処理する記憶力の固まりのコンピューターは証券会社にぴったりの機械だった。麦踏みを始めて五年、出来高が一段と膨らむであろう将来に備え、不況のドン底でレンタル方式でなく一括買い取りをとった。
証券業者の営業所数はピークの三十八年四月の二千九百四十二店から三十九年九月には二千七百三十一店、従業者数も三十八年九月の十万八百七十人が三十九年九月には八万七千四百六十八人へと、わずか一年で三十六年の水準に後戻りした。
経営危機に陥る証券会社が続出した四十年九月期の立花証券の決算は、麦踏み効果とゲリラ戦によって、わずか(千二百万円)ではあったが黒字を維持することができた。
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「証券界のソニー」目標
経営に制約、無念の思いも
免許制
昭和四十三年四月、証券業は届け出制から免許制に移行した。免許制への移行は、証券会社の経営の近代化に役立った半面、経営の自由度は制約されることになった。
会社が顧客を選ぶ研究所形態の会員制組織を理想とした私の経営方針は百八十度の転換を迫られた。独特な行き方が認められないのならどうあるべきか。日本経済はこれから収穫期を迎えるところであり、証券業界が潤う背景ができつつあった。
四十五年度を起点とする十カ年計画を策定し、証券業界のソニーを目指す優良企業構想を打ち出した。高収益、高賃金に目標の重点を置き、三百七十三人の従業員を三倍の一千人に増やすという内容である。
やみくもな拡大を目指そうとしたのではない。日本経済の規模拡大や証券業の環境変化に適応した適正規模の経営が課題だ。経済と相場をそれまで以上に的確に読むことが、経営者としての私の務めになった。
三十八年の証券取引法の改正で勧誘行為の規制が強化されたころ、大蔵省から「君の言動は行き過ぎだ」と注意された。私自身は断定的な言動を吐いた覚えはなかったが、経験が浅い上に正直過ぎる物の言い方や性格が生意気と映ったのだろう。資本を一〇〇%近く私一人で持っていたから、石井商店と見られても仕方なかった。「何をするか分からない危険なヤツ」と、周囲から警戒されたのも残念ながら確かだった。
四十三年の免許制移行に伴い、約二十年間使っていた「独眼流」のペンネームも捨てた。
経理はガラス張りで、うそ偽りのない月次決算を発表していたが、大蔵省や国税庁の検査は念入りだった。「これほどもうかっているのは、何かあるのでは」と疑われた。税務署が「客の口座は石井の仮名口座ではないか」と言って、顧客のところまで確認しに行ったこともある。
三十九年の国税検査では、社員名義の株を私の名義に書き換えろと言われた。会社の利益を還元する狙いで便宜上、社員に株を持たせた形にしていた。正式にやると贈与税がかかるので、名義を戻して配当金額相当分を決算慰労金として出すことにした。善意のつもりだったが、事情を知らない人は「社員から株を取り上げたがめつい経営者」と思っただろう。立花証券は大蔵省の指導で三十五年に配当を開始するまで、ひたすら内部留保につとめてきた。
様々な誤解も徐々に薄れていった。免許制移行時に、同業のオーナー経営者の中には当局から持ち株の分散を要請され、株を手放さざるを得なかった人もいた。しかし、私は一言も言われなかった。資本蓄積、期間収益とも、会社の内容が良過ぎるぐらいに良かったからであろう。
私は三十年代から、証券会社にも増資や株式の公開を認めるよう当局に要望してきた。証券業は信用取引に絡んで大量の運転資金を必要とする。顧客の信用残高が急増して会社や私個人の資力では追いつかなくなると、信用力のない悲しさでペナルティー金利を払って資金調達せざるを得なかった。資金的に他力を利用させてもらっていたら、立花証券は今より一回り大きな規模になっていただろう。証券会社の資金調達が比較的容易になり、資金繰り難から解放されたのは四十八年以降である。
免許制移行後の証券会社の経営は、大蔵省の指導で総合証券化の流れが主流になった。私は株の一品料理の専門店でいく主義だったので、規模的な条件を必要とする卸売り部門の引き受けや募集業務には力を入れなかった。総合証券の看板を掲げる立花証券の収入は、今でも九〇%絡みが株式の委託手数料である。
証券不祥事以来の株式相場の極度の低迷で、立花証券も今年三月決算では創業以来の赤字(十八億円)に陥ったが、業界の流れは総合化からそれぞれ特色を持った個性的な経営に変わりつつある。私の目指した経営は間違っていなかったと思う。
税金について、私は節税に血道を上げる経営は邪道という主義だ。立花証券の純財産額は現在、およそ七百億円ある。大部分は税金を払った後の蓄積である。同族企業の税金は一般企業の約一割増しだから、四十年間の通算で一千億円近い税金を納めた計算になる。
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交遊控えめ「偏人」通す
集中力でゴルフはシングル
負けず嫌い
株の世界では早耳筋とか事情通であることが重要だと思われがちだ。私もよく「どんな情報ルートをお持ちですか」と聞かれるが、特殊なものがあるわけではない。私の勉強法は八割が新聞、雑誌、書籍から得た情報や知識で、人の話を聞く耳学問はあとの二割に過ぎない。
迷惑になるといけないのでお名前は差し控えるが、私が「簿外資産」と呼んでいるおよそ百人のその道の専門家の方々の意見を参考にして、自分の考えをつくってきた。
相場観測では政策をどう読むかが重要なことは言うまでもない。だが、官僚や政治家は政策を動かす権力を握ってはいても、実際に政策を左右するのは国際収支であり、今なら経常収支の動向である。米国の財務長官発言が為替を動かすのではなく、その背景にある日本の黒字が円高をもたらして、政策を発動させるのだと理解している。
財界のお歴々とのお付き合いも皆無だったわけではない。故人では桜田武さんや今里広記さん、永野重雄さんなどを存じ上げており、永野さん、今里さんにはよく囲碁の相手をさせられた。
ソニーの盛田昭夫さん、大和証券の千野宜時さん、文化服装学院の大沼淳さんらとの勉強会は今も続いている。三井物産の八尋俊邦さんは課長の時代からお付き合いをいただいている。ヤクルトの松園尚巳さんとは同じ九州出身でウマが合い、ひところは飲めない私が頻繁に銀座に誘われた。
証券界でも個人的に親しくさせていただいている方々がいる。三洋証券の土屋陽三郎さんには、長男の登を八年間預かっていただいた。野村證券の北裏喜一郎さんは副社長時代から意見を聞きたいと言われ、毎月昼食をご一緒した。
昭和四十三年に東京証券業協会の理事に就任して以来、私を育てて下さったお礼奉公と思い、業界の役職を通算十五年務めさせていただいた。私自身は業界の外で、投資家への啓もうと証券界の共有財産である投資家の拡大に尽力したつもりなので、業界活動の方は最小限で勘弁させていただいた。
高橋亀吉先生がそうだったように、私も自分の勉強以外に割く時間が少なかった。しかし、証券会社の経営者である以上、仲間はずれにならないように、ほどほどの付き合いをさせていただいた。
酒もマージャンもやらない私だが、健康管理も兼ねてゴルフを始めたのが三十四年暮れ。三年半でシングルになり、最終的にハンディは四になった。健康にはリズムが大切だから、天候以外の理由で休んだことはない。我孫子カントリークラブの会員になって、土曜の午後に会社からゴルフ場に直行し、翌朝一番から二ラウンド半回るのが習慣だった。
夕方クラブハウスに上がっても、日が暮れるまでその日のショットを復習した。その日の欠点をその日のうちに直しておけば、心理的な不安が残らない。私のゴルフは無造作に見えるらしいが、正しくは無心である。スポーツのうちでもゴルフは特に精神力、集中力の違いが出る。私のハンディは技術的な実力よりも精神力で四までいったと思う。普通の人は逆ではないだろうか。
クラブのシングルの人たちにもんでもらったのが強くなった理由である。仕事でも優れた人の胸を借りれば強くなる。証券会社の社長会(弥生会)で五、六回連続優勝したこともあるが、余りやり過ぎると嫌われるようだ。
負けず嫌いで世間的な人付き合いが苦手な私は、自分の生き方に合わないもの、自分の勉強にならないものは切り捨ててきた。「飲み食いの遊び友達はいらない。人生で真剣勝負するには自分より優れた人を選んで腕を磨け」と社員にも言っている。私を「変人」と言う人がいるのはそのためだろうが、自分では偏っているのは事実だから、前にも記した通り「偏人」だと思っている。
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カネ余り、大相場予言
「列島改造」国挙げて勘違い
ニクソンショック
戦後最長のいざなぎ景気(昭和四十一―四十五年)を経て、日本経済は二十歳になった。経常収支の黒字が定着して債権国になったのが四十三年。借金によるガムシャラな投資を終えた企業は回収期を迎えるので、カネ余り時代のスケールの大きな相場になる。私はそう見ていた。
そこに降ってわいたのがニクソンショックだった。四十六年八月十五日、ニクソン米大統領は金とドルの交換を停止すると発表、戦後世界経済の枠組みのかなめだった国際通貨制度が崩壊する。朝鮮戦争で戦費二千六百五十億j、ベトナム戦争で五千七百億jを浪費した米国経済が疲弊して金・ドル本位制を維持できなくなった。十二月のスミソニアン合意で、円は一j三六〇円から三〇八円に一六・八八%切り上げられ、四十八年から変動相場制に移行する。
円切り上げの影響を過大視して国内は大騒ぎになり、株式相場も暴落した。学者やエコノミスト、経営者も官僚、政治家も、みなさん日本経済は昭和初年の「金解禁」に匹敵する大打撃を受けると心配された。経団連会長の土光敏夫さんもそうだったし、当時大蔵大臣の水田三喜男さんは円の切り上げ幅を縮めるための交渉に奔走された。
前の年に社員三倍増計画を発表していた私は「しめた」と思った。私は四十六年八月二十四日にテレビの座談会で「株価は今日が安値になる」と言ったが、ダウはその日の二千百六十二円を底に反発した。スミソニアン合意の一カ月後の翌年一月、ダウは新高値を更新して株式相場はその時も先見性を示した。
四十六年九月十五日の緊急経済講演会では「円切り上げは日本経済の実力が認められたということだから悲観は不要。金融緩和で戦後最大のカネ余り時代が到来する」と訴えた。二十四年に設定された為替レートが二十年も放置され割安に過ぎた。当時、米国の製造業はフル操業状態、英国では雇用税が導入されたほど世界中が好景気で、日本の製品は値上げしても売れる、三〇八円でも円は安いと思ったからだ。
ドルとの紐帯(ちゅうたい)を解かれた金価格は急騰(一オンス三十五jが五十五年に八百jを超えた)。銀も銅も小麦も綿花も商品価格すべてが上昇した。みなさんはそれを見て「インフレ」とおっしゃったが、私は「不換紙幣になったドルとともに、世界中の紙幣の価値が下落したのだ」と主張した。
不労所得の発生による一時的な需要はあったが、需要が増えたわけでも、供給が減ったわけでもないから通常のインフレとは違う。金の縛りから自由になった基軸通貨のドルがばらまかれて世界経済の成長に弾みがつくと思った。
紙幣の価値が下落したのだから、物と同様に株も値上がりする。インフレと思った人は物の買い占めに走り、四十九年以降のデフレでやけどをした。その後に起きた経済現象をどう理解してどう対処するかの差も、この時の変化の本質をどう把握したかで違った。
四十七年七月の田中内閣の発足で「列島改造」ブームが起き、土地も株も大インフレの様相を帯びた。実際は計画を発表しただけで何もやっていない。「黒船」に慌てた政府・日銀が赤字国債の発行、金融緩和でアクセルをふかし過ぎたのだ。今日の不健全な金融肥大症経済は、ニクソンショックの意味を取り違えて、適切な対応をしなかった政策の誤りに起因している。
黒字基調の定着と変動相場制への移行で、国際収支の動きから景気と相場を読むことができた単純な時代ではなくなる。強いて言えば、着目点は経常収支の黒字の規模だが、以前のように三月とズレなかった予測は、一―三年のズレが生じる先の読みにくい時代になった。四十八年の第一次石油危機を境にして、それは決定的になった。
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欧米訪問、自信新たに
日本の地力に期待、買い貫く
石油危機
ニクソンショックで政府・日銀がアクセルを力一杯踏んだ後の昭和四十八年十月、第二のショックが日本を襲った。第一次石油危機である。
政府は「全治三年」(福田蔵相)と診断した。円切り上げを国難ととった人たちが、それを難なく乗り越えた日本の経済力を今度は過信した。その時点で多くの人は六十年にかけ、鉄鋼生産一億八千万トン(四十八年当時一億二千万トン)、石油精製七億キロリットル(同三億キロリットル)、造船能力千五百万トン(同一千万トン)になると信じて拡大投資を借金でやっていた。
私は構造的、革命的な変化だと考えた。原油輸入代金が五十億jから二百億jになって年間約五兆円の所得が産油国に移転する。二ケタ成長を予想して形成されていた日本経済に、半分の五―六%成長で食っていけと言われたに等しい。順応するには相当な水膨れの是正を必要とする。人間の年齢で言えば、人生で一番いい二十代、三十代の青年時代を楽しまずに、いきなり四十代に年を取ったようなものだ。週休二日や一カ月の夏休みの楽しみを経て壮年期を迎えるのが順序のはずだった。だが、悲観は無用だ。成長率は半減しても欧米よりは高い。何よりの強みは、石油の安い時代につくった競争力抜群の設備を持っていることだ。鉄鋼の製造設備はトン五万円で完成しているが、欧米でこれからつくろうとすればトン二十万円はする。自動車も電機もそうで、幸運にも日本経済全体がそうなっていた。
日本経済がもうダメだと言う外国のファンドマネージャーに、「あなた方の考え方は間違っている」と忠告したが、外国の投資家は四十年代に買った日本株をあらかた五十年代初期に売ってしまった。
勘定合って銭足らずの借金企業が一ケタ成長に順応し終われば、二ケタ増益の利潤景気に変わるはず。加えてカネ余りになるから、高成長時代よりも株高が期待できる可能性がある。断固買い方針でいくべきだと言うのが私の考え方であった。
もちろん高度成長時代のような全面高、一斉高はなくなるが、銘柄の選択とタイミングを誤らなければむしろチャンスは多いと力説した。少数意見だったが、私の見方は割合好評だった。地方新聞社の政経懇話会や商工会主催の講演依頼が殺到して引っ張りだこになった。オイルショックの意味を間違えている方が多いのと、会長になって余裕ができたので、社会のへの恩返しの意味で全国を駆け回った。一年で百回を超す株式新聞時代以来の講演をこなした。造船会社のおひざ元では「第二の石炭産業の危険あり」として、地域からの脱出を勧めたりもした。
私はこの時期初めて海外に出た。それまで海外視察をしなかったのは、新聞、雑誌と統計資料で居ながらにして世界の情勢がつかめたからだ。石油危機に対する自分の考えをチェックする目的もあって外から日本を見てみようと思った。四十九年三月と十月に米国とヨーロッパを一週間ずつ駆け足で回った。通訳に高校生の長男の登を連れて行った。長男には中学生の時から、語学の勉強と自立心を養わすために、夏休みの一カ月、百万円持たせて海外にやっていた。米国ではロサンゼルスとニューヨークを訪れ、メリルリンチの幹部に話を聞いた。米国の住宅には部屋ごとに電気や冷暖房のスイッチがなく、大変なエネルギー浪費社会であること、米国企業のオフィスは個室か間仕切りがしてあって人間関係が疎だという新鮮な印象を受けた。米国の証券マンは専門的な面については知識を持っているが、どちらかというと視野が狭く総合的なものの見方をしないこと、証券会社の経営も日本の方が上だと思った。
ヨーロッパはロンドンからパリ、ローマ、フランクフルトを回った。大和証券のロンドン支店にいた中前忠さんにその時初めてお会いした。ヨーロッパの印象は階級社会で活気がなく、資本主義経済のおおもとの株式市場がすでに活力を失った、衰退しつつある世界ということだ。
初の海外旅行は自分が想像していたことを確認したことで、外国に見習うことは少なかったということを学んだ旅だった。
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創業二十年、五十歳で勇退
若手にバトン、後見役めざす
会長就任
昭和四十八年九月一日、立花証券は創業二十周年を迎えた。同年五月二十六日の二十周年記念謝恩講演会(「これからの日本を考える」)は、会場の日本武道館の一万席を埋め尽くした。私は「あと五年で日本の一人当たりの所得は米国並みになる」と黄金時代の到来を予言した。石油危機で状況が一変するのは前回述べた通りである。
十周年で政界への転身を計画して果たせなかった私はまだ五十歳だったが、思うところがあって社長を退き会長に就任した。四十八年九月期の業績は、従業員一人当たり純利益で百四十万円、純財産額は四十二億円。財務内容的には業界トップクラスの企業の社長が五十で引退するというので様々な憶測を生んだ。「いよいよ政界に出る」とか、「石井はガンなのでは」と言う説まで流れた。
免許制に移行して勝手が許されなくなった証券会社として、このままではいけないと感じていた。経営者としての私は、株式投資の布教のために相場観測を世に訴えるという型破りなタイプである。証券会社の経営を勉強するために、無給で「場電」から初めて歩合外務員をやり、会社再建の臨床実験まで経験してきた創業者でもある。社員のことも知り尽くしている。私が五分で出す結論も、部分的な経験しかない人たちが合議制で決めるとなると一時間どころか一日かかって、出てくる結論も私以上のものになる保証はない。
しかし、二十歳の成人になった会社が、創業期そのままの特殊なやり方で良かろうはずがない。私がいなくなってもやっていけるように、体制を整えておくのが創業者の務めだ。
社長十年任期論が持論なので、五十歳で辞めて、私の目の黒いうちに三人の社長をつくり、元社長、前社長の元老が見守る中で現役の若い人たちがバリバリ仕事をできるような形が理想と考えた。
最能力者に後事を託そうと思い、副社長の中田忠雄君を社長に指名して会長に退いた。中田君は三十四年入社の四十五歳。相場観測を書いたりしゃべったりするタイプではないが、営業のセンスが抜群で、組織を束ねて人を引っ張っていくリーダーとしての能力が傑出していた。
私は頭脳産業の証券業は三年で結果が出る、他に例のない産業だと思っている。製造業なら十年かかるところを、やり方次第で二倍、三倍に伸ばせるし、金銭的にも報いられる。だから常に経営は三年単位で考えてきた。その半面、短期決戦型ということは、しくじればあっと言う間に没落するということでもある。すべては人にかかっている。
だから人材の育成にことのほか気を使ってきた。実力本位の世界であることはプロ野球や相撲の世界と同じだから、悪平等は一番いけない。ボーナスの格差は数百万円、一千万円あって当然だ。証券会社のトップは三割バッターでなければならない。先天的な才能がなければ王や長嶋にはなれないから、だれもが三割バッターになれるわけではない。しかし、努力すれば二割四分、人一倍やれば二割八分までなら行ける。
幹部には自分が三割バッターを目指して努力するとともに、部下を二割四分から二割八分へと育て、部下のボーナスを増やしてやることを楽しみと感じるように求めた。仕事と思うから役職の責任を苦痛と感じるのであって、オーナーと違って自分の危険負担はゼロなのだから、かえって思い切りできるはず。
督戦隊型の精神主義で「頑張れ、頑張れ」は認めない。「こうあるべき」「こうすべき」という方法論を明示せよと言ってきた。
私が後見役を努めた最初の五年は思い通りに事は運んでいった。五十七年十月一日の役員会で、中田社長に退いてもらい、私は九年ぶりに社長に復帰した。
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社長更迭、誤り正す
後継者育成の理想は道半ば
人間道楽
偶然だが、私が社長を退いた昭和四十八年を境に、立花証券の業績は低下した。社長に復帰した五十七年は十月一日が株式相場の大底だった。それから七年余りも続く大相場の起点となった年である。再度、会長に退いたのは六十三年で、証券界が空前の出来高にわいた年だった。
後継者へのバトンタッチのタイミングは微妙だ。いい時に辞め、その後が悪い場合は「敵前逃亡」と言われて後ろ指を指され、悪い時には辞めにくい。 経営者の出処進退は難しく、創業者の場合は数段難しい。
立花証券の二代目社長の中田忠雄君の場合も、人間はみな長所と短所を持っているが、社長にすれば長所をますます伸ばし、欠点の短所は直せると思っての社長任命であった。
私は常々、幹部社員に向かって「人は生かして使え、欠点は余り見ないで長所を見て伸ばしてやれ」と言い続けてきた。いまだに惜しいと思うほどの人使いの才能を持った人物と思えばこそ、後継者に指名したのだが、その中田君に社長を辞めてもらうという事態に至った責任の八割方は、選んだ私にある。辞めてもらった理由について、役員には説明した。しかし、社内にも話していない。既に十年近く社長をやり、人事も任せてあったので、会社の大幹部は大多数が社長の息のかかった人たちだった。私は「過去は問わない」と言って、報復的な人事は一切やらなかった。会社にとって歴史的な大事件であったが、だれにでも間違いはあることだからだ。
証券業は頭脳産業の最たるもので人次第と言っても過言ではないが、中でも判断力がものを言う。経営でも「致命的かどうか」の判断と決断が大きな差となって表れる。相場も同じことである。中田君にも、あと一年で十年勤め上げられるのにという惻隠(そくいん)の情がなかったわけではない。しかし、相場という生き物を相手にした商売柄、社内のゴタゴタでお客様に迷惑をかけてはいけないと考えた。私の目の黒いうちに三人の元、前社長をつくるという理想の実現は難しくなった。
私はこのごろよく「息子さんに跡を継がせるのですか」と聞かれれる。長男の登は現在三十七歳で会社の常務をしているが、継がせるとも継がせないとも言わないことにしている。何も決めていないからだ。
長男にもよその二世経営者の方にも言っているのは、決して創業者に対抗しようなどと考えるなということである。どんな商売でも、創業者は人並みはずれた才覚と努力で成功を勝ち取った人であり、その子供が二代続けて創業者と同等かそれ以上の資質を持っている確率は皆無に近い。能力的に劣る者が背伸びしてまねようとすれば、必ず失敗する。初代の欠点は成り上がり者の宿命で、他人から警戒されることである。二代目は初代にないもの、人柄を磨いて人様から信用されること、これしかない。二代目同士の付き合いは仲間外れにされない程度にして、多くの初代と付き合え。初代は熱心さやひたむきさを評価する。初代に気に入られるよう努力して、知恵を盗めと言っている。
人柄を良くすることとお人よしとは違う。調子の良いことを言って近づいてくる人にだまされるのがお人よしだ。人柄を磨いた後は努力することだが、その努力は会社を大きくすることでも財産を増やすことでもなく、減らさないこと。守備一辺倒でいい。それに専念すれば没落することはない。そのためには人心を掌握して会社の内部を固めること。それが二代目の努めだと言っている。
そして私の持論だが、「オーナー経営とサラリーマン経営の良いところを合わせると必ずうまくいく」と思っている。経営の全責任を負うオーナーは慎重な経営になるのが常である。サラリーマン経営者は結果に対する責任はある程度あったにしても、本人にとって致命的ではない。そこで新しいもの、新しい発想に対して積極的に取り組める。この兼ね合いが大切である。
私の余生は後継者づくりに専念したいと思っている。創業のころから「ワシは道楽は一切しないが、男道楽、人間道楽だけはさせてくれ」と言ってきた。まだ、人間道楽だけは道半ばである。
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毒を承知で「泡踊り」
国際情勢激変、売り指令逃す
レーガン経済
社長復帰の昭和五十七年十月は七年余にわたる大相場の起点となった。レーガノミックスに酔いしれた日本経済が、暴飲暴食の果てに大不況を招く「泡踊り」の始まりである。
レーガン大統領の就任は五十六年。この年の十月に私は工業倶楽部で開かれた日経連の勉強会で「レーガノミックスはヒロポン政策である」と講演した。「減税で貯蓄率が高まることはあり得ない。米国民は飲み食いしてカラ元気が出るが、三―四年が限度。その後に弊害が出てくる。日本はその間に稼いだドルをどう活用するのか。それを日本の実力と勘違いしてはいけない」。
五十七年八月のメキシコ債務危機を機に世界の資金循環が止まり、カネが偏在する時代が始まった。世界的な信用恐慌を回避するために米国は急速に金利を下げた。同年十月、米国株は景気が良くなっていないのに十年ぶりで新高値を付けた。日本でも河本経済企画庁長官が「景気底割れの恐れ」と言った十二月一日に株価は前の高値を抜いた。昔は歩積み預金を要求した金融機関が「カネを借りてくれれば株の注文を出す」と言ってきたのはそのころだ。
日本は輸出急増でカネが余る。危ない国だらけだから資金の行く先がない。そのための異常な株高が、景気が良くなる前の新高値を誘発した。世界的な金融梗塞(こうそく)による理屈抜きの需給相場、特殊な株高の予感があった。
五十八年一月の日本経済新聞恒例の新年株価アンケートで、ただ一人年末のダウ一万円乗せを予測した。異常だが、証券業者は店を閉じるわけにはいかない。私は社内外で「流れに逆らうな。踊らにゃ損。だが間違った相場だから、ほれ込んだり思い込んではならない」と言った。
六十年九月のプラザ合意以後の急速な円高は、安くなり過ぎていた円が本来の価値に戻っただけで、金融緩和の経済効果の方が大きかったから相場は上げ続けた。
六十二年十月の米国株の大暴落(ブラックマンデー)では、多くの学者がパニックを心配した。私は「慌て者が売るので株は下がるが、続かないから買え」と声を大にして叫んだ。戦後は国際協調の時代となったので各国が自分勝手をやらなくなり、景気が悪いのは政治の責任になったから連銀や日銀がアクセルをふかし放題ふかす。だから恐慌論は一〇〇%ナンセンスである。
みなさんおじ気づいているから、買わせるにはテクニックが必要だ。「まず千株買ってください」と言って買い癖を付ける。「もう千株買いましょう」と言って買っていただく。そのうちに利が乗ってくると自信が付く。辛抱強く根気よく説得することが大切である。
心残りは相場観測をライフワークとしてきた者として、このみぞうの大相場で売り時期をはっきりと投資家に伝えられなかったことだ。
ケタ外れに高い株価収益率(PER)は企業価値の限界を超えていた。カネ余りとはいえ、異常な時価発行による調達資金での財テクが行き過ぎていたことは明らかだ。証券業界のだれもが大もうけして、六十三年に立花証券が正常な額(経常利益で五十億円)の四倍以上の利益を出したのも異常だった。
出来高のピークは一日二十億株を超えた六十三年半ば。東京証券取引所が大規模な設備投資をスタートし、証券会社も競って大型コンピューターを導入した。その時点で相場はあと一年持つか、二年持つかのところまできていると見ていた。
平成二年六月、米ソ首脳会談が予定されていた。私はそのあたりで相場は天井を形成すると見て準備していた。ところが、平成元年十一月に突如、ベルリンの壁が崩れた。予想より六カ月も早いソ連・東欧情勢の激変となり、ダウは元年十二月末に三万八千九百十五円八十七銭の史上最高値を付けて暴落した。
証券会社の経営者が、悲観論を言うのは嫌われる。五十八年には十年間続けた日経新聞大機小機欄の「初一念」のペンネームでの執筆を降ろさせていただいた。六十三年からは、講演も執筆もやめ、相場に関するマスコミの取材もお断りして大天井対策をとっていたのに残念だった。
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「証券の芥川賞」創設へ
株放出、危うく長者番付1位
石井記念財団
社長復帰後丸六年たった昭和六十三年十二月、七歳年下の福園一成君を社長に指名して再び会長に退いた。この時は重病説のほかに、「息子がいるのに……」と世間はいぶかしがった。理由は単純で、会社は三十五周年、私も六十五歳で区切りが良かったからに過ぎない。
相場の終盤戦対策もあって会長に退くことを決めた六十三年九月、部店長会議で「今後は会議を主宰しない、物も書かない」と宣言した。予告なしの社長指名に福園君は初めはしり込みしたが、「当分は手助けするから」と言って説得した。
福園君は八階の社長室にいたためしがなく、今でも七階の営業本部や株式部の隅に陣取っていることが多いようだ。福園君や幹部社員に任せられるところまできたと思う。
二度目の会長に就任して間もなくの「事件」は、危うく長者番付の一位になりかけたことだ。免許業種では異例のオーナー経営を続けてきた立花証券も、それが許されなくなって株を手放すことになった。
私は会社は株を公開して初めて完成すると思っている。そこで創業者の使命が完了となる。株式の公開には総合証券化の必要がある。公開の条件を満たすために、資本金三十億円以上への増資と、私の持ち株比率を引き下げる必要が生じた。
六十三年と平成二年の二回、合計二百五十万株の第三者割り当て増資の一方で、個人所有の四百二十万株余りを平成元年と平成二年の二度にわたって放出した。
私は平成元年の高額納税者第二位(納税額約二十八億円)になってしまった。郷里の福岡へ雲隠れしてマスコミの取材を逃れたが、この時、石井記念証券研究振興財団(財団法人)をつくって現金五億円と立花証券株三百万株を寄付した。
証券市場の振興に寄与したいと考えたのと、証券業者が番付一位になって誤解を招くのはまずいと思ったからだ。新聞に出るまで、家内でさえ私の財産がいくらあるか知らなかったし、寄付の相談すらしなかった。
会社をどんなによくしても自社株は公開しなければ絵にかいたモチと思っていた。一株四千―五千円の値が付いたのは、類似会社比準方式の株価算定の時期が株式相場のピークと重なったからだ。本当はもっと安く売り出したかったのだが、そうすると贈与税がかかってしまう。
相場の大天井を想定して、六十三年以降、再度の麦踏みをやった。支店を五つ閉じて十七支店から十二支店に縮小。社員寮を併設した研修所の建設計画にストップをかけ、人の採用にもブレーキを踏んだ。社員には不満だろうが、水膨れの度合いが小さい立花証券でも、縮小均衡策を取らざるを得ないほど、現在の証券業界の環境は厳しい。これから新しいコンピューターを導入する予定だが、三―四年前に比べて随分安くなっているはずだ。
私も満七十歳になった。残された時間もあと十年ぐらいである。その間に何をやるか、真剣に考えているところだ。株を公開して会社を完成させることのほかに、ぜひ、やっておきたいことがある。財団の基金で「石井賞」を実現させることだ。
証券市場や株式相場の研究で優れた業績を上げた人に一千万円前後の賞金を出して、文壇の登竜門である「芥川賞」の証券界版にしたい。株式相場中心の一回の講演で、百万円の講演料を取れる人が日本に十人はいてもいいと思うのだが、そういう価値のある人の養成の手助けをしたいものだと考えている。
それは証券界に飛び込む前に高橋亀吉先生にお目にかかっていたならば、弟子入りして学者になっていたかも知れない私の、なりそこねの夢なのである。
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ベビーブーム再来期待
経済の老化、政策次第で緩和
十年後の日本
昭和二十三年に二十五歳で証券界に飛び込み、六十三年に六十五歳で第一線を退いた私の人生は、日本経済の縮図に似た足取りだった。私は常に、十年先を読んでどう行動すべきかを考え実行してきた。もう一度、戦後の歩みを振り返り、十年後の二十一世紀を展望してみたい。
昭和二十年を境に生まれ変わった日本経済が大発展を遂げた原因は、国際環境の好転のほかに三つある。
第一はパージ(公職追放)で、戦前派のオーナーや高齢の経営者が一掃されて若いサラリーマン経営者の天下になり、自己資本中心のお堅い経営から借金を苦にしない積極果敢な経営に変わったこと。第二は三十年の保守合同以来、政治の安定が続いたことだ。これによって、先行きを気にせずに経営者、商売人が経営を積極的にやることができた。第三は国防費を国民総生産(GNP)の一%以内に収めるという軍事負担の軽さで、国の資力を挙げて経済につぎ込めたことである。
戦前の証券市場は清算取引中心の一種のばくち場だったが、戦後は大きく変わった。株価は実体経済の変化を先取りする先見性の特技を持った賢い動物である。「株式相場は経済を映す鏡」とはそのことを指しているが、鏡の証券市場には、逆に実像を振り回す性格もある。
私は戦後の日本経済の大発展は、紙切れになるかも知れない株券と引き換えに十兆円の投資をした勇敢な投資家がいたからだと信じている。十兆円は額面発行時代の払い込み資本金総額で、企業はこれを種銭に銀行からカネを引き出した。借金経営こそ高度成長のバネだったが、担保制金融の日本で銀行は種銭なしにあれほど大胆に貸せたとは思えない。
しっぽ(証券市場)が犬(実体経済)を振り回すというが、証券市場は経済を映す鏡であると同時に、経済を動かす心臓でもある。一九八〇年代後半の六十六兆円の時価発行の行き過ぎで、悪者扱いされ、たたかれ過ぎているのが今の証券市場の姿である。
私が日本経済を人間の年齢に見立ててきたのは、企業も国も、人間と同様に栄枯盛衰の摂理から無縁でなく、それは十年後を読むための目安になり、繁栄の頂点から衰退に転じる時期を見誤らないためである。
三十五年に十歳になり、四十五年に二十歳の成人となり、石油危機で一気に四十歳にとんだ日本経済は、今六十歳の初老期にある。十代の不摂生(四十年の証券不況)は絶食すればすぐに直るが、六十歳では元の健康体にはなかなか戻りにくい。
現状の日本経済は暴飲暴食のツケ(金利と償却負担)に加え、過剰貯蓄体質がもたらした実力不相応の円高で本格的な産業の空洞化に直面し、自民党の分裂による多党化で平成「応仁の乱」が始まったとも考えられる。経営者の高齢化も目立つ。欧米に比べてまだ財政に若干の余裕があるものの、かつてのような積極的な経営も成長も望むべくもない。
私が二十一世紀の日本経済を読む際に注目しているのは人口の動向である。来年から平成七、八年にかけてベビーブーマーが出産適齢期を迎えるが、ここで第三次ベビーブームが起きるかどうかだ。
昭和二十年代の第一次ブームで二十四年には二百七十万人に上った新生児の数は、四十年代の第二次ブームで二百九万人の山を作ったが、最近では百二十万人に減少している。これが百六十万―百七十万人に戻って三―五年続けば、日本経済の六十歳以降の年のとり方は緩慢になる。 しかし、百二十万―百三十万人で終われば、十年後の日本経済は現在の英仏並みの七十歳に一気に老け込むと見ている。
文明も国も、いったん衰退を始めると引き返した例は少ない。それでも日本には貯蓄が有り余るほどあるのだから、証券業はこの先十年、まだ相対的に有利な産業だと思う。有利な投資物件や投資先が少なく、カネ対株のバランスからもそう考える。日本経済の老化を早めるのも緩やかにするのも政策のいかんであり、政治、政策のカジ取り役の方々の善処を心から念願してやまない。
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著者近影(2003年9月)
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